戦後75年 今、あなたに伝えたい

 

2020年は第2次世界大戦が終わって、75年目の年です。日本は明治以来、外国と戦争をしてきました。静岡からも多くの若者が戦地に行きました。残った人たちも戦争を支えてきました。戦争末期には、アメリカ軍によって静岡も空襲を受けました。
 この75年間、日本は直接の当事者としては戦争をしていませんが、世界は「戦争」をはじめ「紛争」「テロ」そして「核兵器の脅威」にさらされてきました。
 私たちは「戦争や暴力、核兵器のない」世界の実現を願い、75年前の戦争を風化させない活動を続けていきます。
貴重な資料をご寄贈下さった方々、ご協力をいただいた方たちに心より感謝申し上げます。

2020年10月

 静岡平和資料センターは2020年8月に静岡市民ギャラリーで「戦後75年特別展示・戦争と静岡」を予定しておりました。しかし「新型コロナ感染」の拡大により中止することとなり、改めて、この「オンラインミュージアム」を企画しました。

         

 

 
 

オンラインミュージアム はじめに

はじめに/動画再生時間 6分30秒 [450MB]

 
 
 
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第一展示室について

 静岡の人たちは徴兵制による「国民皆兵」によって、西南戦争から日中戦争、アジア太平洋戦争まで、内乱や外国との戦争に従軍しました。1897年(明治30)、静岡の駿府城跡地(現駿府城公園)に第3師団の歩兵第34連隊が置かれてからは、ここから多くの若者が外国の戦場へと出征していきました。また国策として「満州」に「開拓」に行った人たちもいました。
ふるさとに残った人たちは常に戦争を支える立場となりました。日中戦争が始まると「国民総動員」という名の下に勤労動員等で戦争協力にかり出され、人も物も統制された中で暮らしました。そしてアメリカ軍のたび重なる空爆によってふるさとは「銃後」から「戦場」となりました。
 敗戦後は海外から軍人や民間人が引揚げ帰国しました。国内には親を失ったたくさんの子どもたちがいて「戦災孤児」とよばれました。ソ連によるシベリア抑留など帰国できない人もいて、数々の困難が人びとを苦しめました。

 
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第二展示室について

戦争の末期、1944年から1945年にかけて日本のほとんどの主要都市がB29(アメリカ軍の戦略爆撃機)による空襲をうけました。犠牲になった市民は全国で50万人以上といわれています。ここ、静岡・清水もたびたびの空襲で市街地は焦土と化し、2350人余りの命が奪われました。
一方、日中戦争では日本軍が中国の都市、重慶や錦州へ何年にもわたり空爆を行っていたことも忘れてはなりません。
戦後75年、この間日本は戦争をしていませんが、世界では「戦争」が続いています。戦争は人々の暮らしをどのように変えてしまうのか、「静岡の空襲」を通して振り返ってみます。

展示内容

 
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第三展示室について

戦争末期、日本軍部は「本土決戦」作戦を計画し、国民はその作戦に巻き込まれていきました。 ただ「本土決戦」に至る前に戦争は終結し、これまで計画に対するまとまった文書資料もないために戦後、あまり重要視されず、調査・研究は進んでいませんでした。
しかし日本軍部がアメリカ軍の本土上陸を想定し、沿岸部などに迎え撃つ大規模な作戦を立てていたことは明らかになっています。静岡では、主に日本平がある有度山で「本土決戦」のために新設された軍隊が準備を進めていました。
その事実を少年期から知っていた一市民の提案をきっかけに、2017年9月から静岡の資料としてまとめることを始めました。陣地構築に携わった方や家族にお話をうかがったり、壕の現地調査等を実施し、その結果30か所の壕の確認と20名の証言を得ることができました。 ここでは、その一部を紹介します。
 
                       

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こども平和教室について

特別室はこどもたちのためのコーナーです。 静岡市内にある大学のお兄さんお姉さんたちが平和教室を手伝ってくれました。どうぞ、のぞいてください。 「内容1」は、気に入ったら、ダウンロードして使ってください。 「内容2」では、静岡平和資料センターや静岡市立図書館で読むことのできる本を紹介しています。気に入ったら読んでみてくださいね。 「内容3」では、戦争を思い起こすことのできる場所を案内します。 動画もあります。見てね。
 

展示内容

協力:
常葉大学学生ボランティア・静岡大学生協学生委員会
 
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