【証言⑦】
陸軍歩兵第410連隊の第6中隊長を務めた
青嶋茂大尉(あおしま しげる)について
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青嶋茂は1914(大正3)年清水に生まれた。1932(昭和7)年に卒業した県立庵原中学校(現・清水東高等学校)では野球選手として活躍する。1937年には中央大学専門部法学科を卒業した。
大学卒業後の1938年歩兵第34連隊に入隊する。日中戦争が長期化するなか、華北・山西省の独立歩兵第15大隊第3中隊に転属となった。鉄道を中心とした治安警備を主任務とする大隊は、八路軍(共産党軍)や国民政府軍との戦闘にも参加する。1940年1月の戦闘で、茂は中隊の尖兵として小隊を率いた。8月には(石太線に主攻を向けた)八路軍の大部隊による奇襲を受け、大隊は苦境に陥った(中国側呼称 「百団大戦」)。茂は、「重囲下の分遣隊に日の丸はへんぽんたりと飛機報告す」と詠んでいる。その年の冬から腎臓病を患い、帰国して入退院を繰り返した。
1945年再召集された茂は、歩兵第410連隊第2大隊第6中隊長として有度山で陣地構築を指揮した。小沢繁作第4中隊長、中村誉第5中隊長らとともに平沢にいたという。
戦後は第410連隊の同僚との縁もあって、食糧配給公団に勤務する。しかし、戦地で病んだ腎臓は完治せず、1953年11月突然倒れ、その日のうちに亡くなった。39歳。妻と幼い子どもたちが残された。
大学卒業後の1938年歩兵第34連隊に入隊する。日中戦争が長期化するなか、華北・山西省の独立歩兵第15大隊第3中隊に転属となった。鉄道を中心とした治安警備を主任務とする大隊は、八路軍(共産党軍)や国民政府軍との戦闘にも参加する。1940年1月の戦闘で、茂は中隊の尖兵として小隊を率いた。8月には(石太線に主攻を向けた)八路軍の大部隊による奇襲を受け、大隊は苦境に陥った(中国側呼称 「百団大戦」)。茂は、「重囲下の分遣隊に日の丸はへんぽんたりと飛機報告す」と詠んでいる。その年の冬から腎臓病を患い、帰国して入退院を繰り返した。
1945年再召集された茂は、歩兵第410連隊第2大隊第6中隊長として有度山で陣地構築を指揮した。小沢繁作第4中隊長、中村誉第5中隊長らとともに平沢にいたという。
戦後は第410連隊の同僚との縁もあって、食糧配給公団に勤務する。しかし、戦地で病んだ腎臓は完治せず、1953年11月突然倒れ、その日のうちに亡くなった。39歳。妻と幼い子どもたちが残された。
年月日 | 青嶋茂さんの年譜 | 写真 |
---|---|---|
1914.11.3 | 清水に生まれる | |
1932.3.4 | 静岡県立庵原中学校卒業 | |
1937.3.30 | 中央大学専門部法学科卒業 | ① |
1937.7.7 | 日中戦争 | |
1938.1.10 | 現役兵として歩兵第34連隊補充隊(静岡)に入隊。第1機関銃中隊に編入 | |
1938.5.1 | 幹部候補生に | |
1938.7.1 | 上等兵に | |
1938.7.18 | 甲種幹部候補生に | |
1938.9.1 | 豊橋陸軍教導学校に入校。伍長に | |
1938.12.1 | 軍曹に | 1939.3.9 | 豊橋陸軍教導学校卒業帰隊。曹長、見習士官に |
1939.4.15 | 神戸港から中国・塘沽港上陸. 独立歩兵第15大隊に転属 |
|
1939.4.19 | 山西省・湯泉着.第3中隊附に | |
1939.4.20 | 岩会着.正太線南北地区の警備 | |
1939.6.24 | 士官勤務を命ぜられる | |
1939.8.23-31 | 平定地区8月粛正討伐に参加 | |
1939.11.16 | 歩兵少尉に.予備役編入、引続き臨時召集 | |
1940.1.13-1.20 | 平定県測魚鎮付近討伐に参加 | |
1940.1.27-2.3 | 新編第2師掃滅戦参加 | |
1940.2.7-2.8 | 平定県大石門口付近の戦闘に参加 | |
1940.3.22-3.24 | 皐落鎮付近共産軍掃滅作戦に参加 | |
1940.4.8-4.28 | 春季晋南作戦に参加 | |
1940.4.29-5.20 | 郷寧作戦に参加 | |
1940.5.21-6.4 | 臨汾付近の警備 | |
1940.6.7 | 平定着.石太線南北地区の警備 | |
1940.8.20-8.31 | 石太線反抗作戦に参加 | ② | 1940.9.1-9.18 | 第1期晋中作戦に参加 | 1940.9.15 | 少尉に | 1940.12.21 | 急性腎臓炎により陽泉陸軍病院に入院 | ③ | 1941.1.13 | 石門陸軍病院、北京陸軍病院に転送 | 1941.8.1 | 中尉に | ④ |
1941.8.15 | 国内の病院に送還のため塘沽港出帆 | |
1941.8.19 | 宇品港上陸.歩兵第33連隊(津)に転属 | |
1941.10.1 | 軍備改変により歩兵第151連隊(津)に充用 | |
1941.10.9- | 京都、東京、津陸軍病院に入退院 | |
1941.12.8 | 太平洋戦争 | |
1943.11.9 | 召集解除 | |
1944.11 | 軍需工場に勤務、静岡市にて結婚 | ⑤ |
1945.3.15 | 臨時召集により歩兵第34連隊補充隊に応召.第1機関銃中隊附に | |
1945.4.1 | 歩兵第410連隊(清水)第6中隊長に | |
1945.8.20 | 大尉に | |
1945.9.21 | 名古屋師管区歩兵第2補充隊に転属 | |
1945.10.13 | 召集解除 / 御殿場に転居 | |
1947 | 長男誕生 | |
1948.8.1 | 食糧配給公団御殿場支所に就職 | |
1950 | 次男誕生 | |
1953.11.17 | 御殿場市にて死去 |
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