アメリカ軍の日本本土上陸作戦

アメリカ軍の日本本土上陸作戦

1.ダウンフォール作戦 ―2段構えの地上戦―

 

オリンピック作戦の原型を示した図

オリンピック作戦の原型を示した図
1944年7月に作成されたもの(米国立公文書館蔵/工藤洋三提供)

 1945年8月末、連合国軍最高司令官マッカーサー率いるアメリカ軍は日本本土に進駐した。本土への空襲、原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て、日本は14日に降伏していた。
 日本が降伏しなかった場合、アメリカ軍は日本本土に上陸して地上戦を開始することを計画していた。「破滅」を意味するダウンフォール(DOWNFALLoperation)という暗号名で呼ばれたこの作戦は大きく2つの作戦に分けられていた。ひとつは、1945年11月1日に宮崎海岸(宮崎)、志布志湾および吹上浜(鹿児島)の3地点から上陸して南九州に航空機の基地を確保するオリンピック作戦(OLYMPICoperation)である。オリンピック作戦は、翌年3月1日に九十九里浜(千葉)と相模湾(神奈川)より関東平野に上陸して首都・東京の制圧を目指す、もう一つの作戦であるコロネット作戦(CORONEToperation)に備えることを目的としていた。ダウンフォール作戦は、すでに1944年にはアメリカを中心に原型ができあがっていた。1945年になると、作戦の見直し、装備や食料の備蓄が進んでいく。

 

2.オリンピック作戦とコロネット作戦

オリンピック作戦 1945年11月

 1945年5月末、アメリカ統合参謀本部は「ダウンフォール作戦計画」を正式に認可した。まず、「オリンピック作戦司令」が発令され、最高指揮官にはマッカーサー陸軍大将が選ばれた。

 オリンピック作戦においては、主力である陸軍の第6軍57万人(戦闘要員34万人と支援要員23万人)が、上陸部隊として投入される計画だった。侵攻前から、第3艦隊、第5艦隊、極東航空軍、第8航空軍および第20航空軍による、絶え間ない艦砲射撃や空襲といった緊密な上陸支援が予定されていた。上陸後の各部隊は、海と空からの支援を受けながら北上して南九州を制圧する。そこにB29などの航空機基地や海上封鎖のための海軍基地を設営して、コロネット作戦に備える予定だった。

コロネット作戦 1946年3月

 コロネット作戦では、陸軍の計画によると、第1軍と第8軍が空海の支援の下で、九十九里浜と相模湾から上陸して、東と西からの挟み撃ちで東京を占領する予定だった。一部は北上して南北のルートを断ち、日本の増援部隊を阻止する。上陸開始日の兵力は52万人(戦闘要員36万人と支援要員16万人)、その後のヨーロッパ戦線からの再配備を含めた総兵力は100万人以上ともいわれている。侵攻前の180日間、東京湾一帯の防御陣地を艦砲射撃と空襲で壊滅させておく計画もあった。
 
 
 
 

3.オリンピック作戦の準備と静岡

急速に整備される極東航空軍の沖縄前進基地

急速に整備される極東航空軍の沖縄前進基地
日本人の労働力も使って整備が進む牧港飛行場 1945年7月6日撮影(米国立公
文書館蔵/工藤洋三提供)

 沖縄戦末期の6月18日、トルーマン大統領が主宰した戦略会議において、オリンピック作戦は最終的に承認された。「沖縄では将兵に35%の死傷者が出た」という報告を受けたトルーマンの懸念は、アメリカ軍の被害予測であった。しかし、議論の末に「日本本土侵攻では、第2の沖縄が再現されないように望む」と述べ、統合参謀本部の計画にゴーサインを出したのだった。一方のコロネット作戦は保留状態にされた。死傷者数はオリンピック作戦のみで13万人、コロネット作戦を合わせると19万人、事故や病気による死傷者まで入れると25万人を超えるという想定もあったからである。

第3艦隊艦載機の空襲を受ける日軽金蒲原工場

第3艦隊艦載機の空襲を受ける日軽金蒲原工場
(米国立公文書館蔵/工藤洋三提供)

 7月に入ると、オリンピック作戦の準備行動が開始された。第3艦隊は7月10日の東京を皮切りに8月15日まで艦載機空襲と艦砲射撃を行った。7月30日には浜松や蒲原が、31日には清水が攻撃を受ける。沖縄に前進基地を確保した極東航空軍は、7月29日の枕崎から8月12日の宮崎までの短期間で南九州の主要な都市を焼き払った。日本軍の飛行場を無力化し、輸送網と都市を破壊しておくためである。7月から8月にかけて、陸海軍の各指揮官と部隊、艦隊、航空機、そして物資が続々と沖縄に到着しつつあった。

 7月16日、最高の国家機密として進められていた原子爆弾が完成した。ポツダム会談に出席していたトルーマンは、本土侵攻作戦によって失われる多くの「若いアメリカ人の命を救」い、ソ連も牽制できる手段として、原子爆弾の使用を決断する。26日、日本に降伏を求めるポツダム宣言が出された。8月6日と9日に2発の原子爆弾が投下されて間もなく、日本は降伏する。その一方で、原爆の投下後も、空襲を含むオリンピック作戦の準備行動は、15日に戦闘中止命令が出る直前まで断続的に続けられていた。

 

4.ブラックリスト作戦 ―降伏後の青写真―

ブラックリスト作戦の基本構想を示した図

ブラックリスト作戦の基本構想を示した図
1945年7月に作成されたもの 濃紺の矢印が最重要地域(米国立公文書館蔵/工藤洋三提供)

 ダウンフォール作戦と並行して、日本の早期降伏や突然の崩壊の可能性を想定した作戦もアメリカ軍は計画していた。ブラックリスト作戦(BLACKLISToperation)という暗号名のこの作戦は、1945年4月頃から計画され、7月にはマッカーサーによる原案が完成していた。そこには、本土上陸前に日本が降伏した場合に、東京などの重点地域から順に3段階に分けて占領を進めること、アメリカ軍の単独占領であること、間接統治の方法を採ることなど、本土や朝鮮半島の統治に関する基本的な考え方や手順が示されている。占領軍の総兵力は日本本土が72万人、朝鮮が11万とされた。糸魚川(新潟)と小田原(神奈川)を結ぶ線より東を第8軍が、静岡を含む西は第6軍が占領する計画だった。

 日本の降伏によってダウンフォール作戦が実施されることはなかった。ブラックリスト作戦に基づいてアメリカ軍は日本本土に無血上陸したのである。その後もブラックリスト作戦は、戦闘終了後のさまざまな条件の中で見直され、修正を加えながら実施されていった。

 


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