中国との戦争が泥沼化しても日本は兵を引かず、南方(東南アジア)の資源を手に入れることで打開を図ろうとしました。しかし、この方針はアメリカ・イギリス・オランダ等の利害と対立します。対米交渉に行き詰まった日本は、1941年(昭和16)12月8日、ハワイの真珠湾とイギリス領マレー半島を奇襲し、米・英との戦争に入りました。
日本は開戦半年後のミッドウェイ海戦の大敗北から後退を始め、見通しのないまま戦争を継続しました。
歩兵第34連隊は中国で戦い続けました。また、静岡で編成された他の部隊は1943年・44年、ガダルカナル島・サイパン島・そしてレイテ島で、アメリカなどの連合軍との戦いに投入されましたが、戦闘と餓死で、あるいは輸送船が魚雷攻撃を受けて沈められ(海没)て、壊滅します。こうして静岡の兵士7900人が中国と太平洋の島々で戦死しました。
日本軍の中国での戦没者の8割は敗戦直前の1年間に集中しており、その大半は激戦の疲労と栄養失調による病死だったのです。