サイパン島の人びと
サイパンは、現在は、正式には「北マリアナ諸島自治連邦区 The Commonwealth of the Northern Mariana Islands」と称するアメリカ合衆国の自治領である。
サイパンの歴史は波乱に満ちている。
マゼランがスペインの艦隊を率いて北マリアナを発見して以来、スペインが領地宣言をして植民地にした。しかし、19世紀末にスペインは島をドイツに売却した。
1900年代に入ると第一次世界大戦が終結するまでのほんの短い期間、日本はアメリカ合衆国、大英帝国、フランスと同盟を結び、戦勝国となった。そしてドイツが敗戦する第一次世界大戦終結によって、国際連盟の元で1920年からマリアナ諸島は日本の委任統治領となった。
1935年に日本は国際連盟を脱退したけれどもマリアナ諸島の統治を続け、事実上併合し、南洋群島とよんだ。多数の日本人が移民として島に渡り、サトウキビを栽培し、漁業を営んだ。島にはチャモロ人、カロリン人3000人も住んでいた。
島は戦争末期に日米の激戦地となり、4万人の日本兵と1万人の民間人が死亡。「玉砕(全滅のことを美化した言い方)の島」といわれた。
米軍はグアム島・サイパン島・テニアン島を制圧したあと、日本本土を空襲するための飛行場を建設する。グアム島から飛び立ったB29は、1945年6月20日静岡市街を空襲した。テニアン島から飛び立ったB29は、7月7日清水市街を空襲した。