【証言5】「平沢観音」付近で壕掘りを手伝う - 斉藤サツキさん –

【証言⑤】有度山周辺

「平沢観音」付近で壕掘りを手伝う

斉藤(旧姓神谷(かみや))サツキ(さいとう さつき)さんの証言(当時14歳)

1930(昭和5)年生まれ

斉藤さん
インタビューを受ける斉藤さん

 当時、静岡市東大谷に住んでいた。小学校高学年の時に日米が開戦し、その数年後、秋晴れの空にB29を初めて見る。それを境に空襲警報が度々発令され、共同防空壕などに逃げ込んだ。近くの浜にも焼夷弾や照明弾が落ちて、大きな穴ができたのを見た。また姉の嫁ぎ先では家族が行方不明になり、ついに戻って来なかったようだ。静岡空襲後には兄嫁と共に街で死体を目にしたり、安倍川で荼毘に付す様子も見た。
 通った大谷国民学校の一部が軍の駐屯地だった。学校に隣接して陸軍の射撃場があり、営倉(兵士を罰する建物)もあった。そこで殺されたと思われる兵隊の白骨死体を目撃し、近くを通るのが恐ろしかった。
 夜には、父のところにどぶろくを持った朝鮮の同僚たちがよく遊びに来た。兄嫁は「言葉が何にも分からない」とグチっていたが、自分は来客を喜んだ。

 昭和20年初夏、町内に平沢の本土決戦壕の掘削作業を手伝うようにと要請があり、家にその動員割当ての順番が回ってきた。父は国鉄定年後、三菱の軍需工場に勤務しており、兄3人は内・外地に出征していて不在のため、当初は兄嫁が行くことになっていた。しかし育児で手が離せなかったので、家の農作業を手伝っていた自分が代わりに、2週間間隔で3回ほど行くことになった。兵隊に対して「怒られる」「殺される」というイメージを持っていてたいへん怖かったし、男性に混じって作業するのは気恥ずかしくて乗り気ではなかった。
 壕を堀りに行く当日、迎えの者と共に、近所の親しい少し歳上の女性ら2人と朝6時過ぎに家を出て、久能山脇の沢づたいに約1時間半歩いて平沢に向かった。「平沢観音」付近はほとんど田んぼで、そこに兵隊の飯場があり、大きな釜が目に入った。作業は8時ごろから始まり、途中兄嫁が作ってくれたおにぎりで昼食を摂り、5時ごろまで行なわれた。久能からも動員された人たちが来ていた。兵隊がツルハシで掻き出した土を袋に詰め、素手でその袋の縄を引っ張り、崖まで引きずって崖下に土を落とすといった作業だ。重くても不満も何も言えなかった。手伝った壕の長さは約30メートル、穴の大きさは2人がやっとすれ違うことが出来る程度であった。兵隊が穴の内部に支える木枠を通す様子を見ながら、大工関係の商売をしていた人だなと思った。壕の目的は、「この辺りで戦いがあった時に隠れ、兵器をしまうために掘る」と言っていたが、それにしては小さいなと感じた。作業中、近くに爆弾が落ちるのを見て、壕に逃げ込んだこともあり、いつ自分も空襲に遭うかと気が気でなかった。
 一方、町内会長や近所の人たちから「若いのによく来たね」と声を掛けられ、かばってもらい、西脇から来た同じ兵隊を手伝うことになった。兵隊は崖下に落ちるなと注意してくれたり、昼食時、一升どっくりに入った水を勧めてくれたことも記憶にある。

 日本の敗戦がささやかれ始め、負けたら女性や子どもはどうなってしまうかと不安にかられた。終戦の日、ビラが田んぼにたくさん落ちて来るのを見た。玉音放送の後、母が「負けたと言いふらしてはいけない」、兄嫁は「夫が帰るまでは負けを信じない」と言った。しかし10日ほど過ぎると、家族も自分もだんだん敗戦を受け入れるようになり、その間に兄たちが一人また一人と出征地から戻って来た。

〔2020年8月19日〕

 


画 山田勝洋


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