【証言④】有度山周辺
日本平山頂下で陣地構築に携わった
横山健治(よこやま けんじ)さんの証言(当時16歳 海軍第15突撃隊兵士6月までは海軍飛行予科練習生)
1928年(昭和3)年生まれ
インタビューを受ける横山さん
私は千葉県船橋の生まれ。中学3年の時予科練を志願して、最初は昭和19年9月に三重の航空隊に入隊した。清水へ移ってきたのは12月だった(清水に海軍航空隊ができたのは9月)。清水でまた訓練を受けたが、20年6月には予科練が解散になった。予科練には、もう飛ぶ飛行機もなかった。軍歴を後からみて私らは「15突撃隊」というのに配属されていたのだと知ったが、本土決戦の突撃隊として、今度は陣地構築の方へ回された。15突撃隊というのは、予科練第14期・15期・16期が入っていた。私は15期。14期生は特攻の訓練を受けていたが、私らはまだだった。15突撃隊は、船はまだないけれども「震洋(ベニヤ板でできたモーターボート・海軍特攻艇)」で突撃するはずだった。でも、船は最後まで配備されなかったので命拾いした。予科練では震洋の格納庫を作った。ただその時には震洋の格納庫だということも知らされず、作業だけしていた。今も三保半島には震洋の格納庫が残っているが、自分がどの部分を作ったのかは覚えている。
(参照:「本土決戦壕」戦争遺跡調査地図記号 Z)
16歳ごろの横山さん
予科練解散の後、日本平で砲台を築いて、敵艦が駿河湾に入ってきたときに砲撃を加えるということで、私らは砲台の陣地構築に当たらせられた。聞こえはいいが「土方」ですね。2人で組になりもっこを担いで砂を運び出した。そして間もなく終戦になった。隊長は大内分隊士、隊員は30人ほどで組織された。頂上から30mぐらいの斜面に横穴を掘った。中の出来具合など見ることはできず、ただ掘った土を谷へと運び出す作業を続けた。中では海軍横須賀施設部の係官が指揮して仕事が続いていたが、指揮内容は一切極秘であった。復員後聞き及んだところでは、砲台に砲は据え付けられたが、発砲することはなかったという。土運びのほかに、ときにはセメント袋を肩に担いで運び上げたり、当番で朝夕弁当を宿舎(山裾の増田別荘)から頂上まで運搬したりした。宿舎では真夜中に班長によるしごきを受けたりして、酷い軍隊に嫌気を覚えた。
予科錬15期で清水に来たのは1500人ぐらいいた。予科練解散後は、一部は横須賀へ、御前崎へ、伊豆へと、全部ばらばらに分かれて本土決戦の備えをさせられた。
7月7日には清水が空襲された。碁盤の目になって燃え上がる清水の街を日本平の頂上から見ていることしかできなかった。むなしかった。
8月15日玉音放送の後、私らは静浜に集められ飛行機の解体作業にかり出された。それを終え復員したのは8月23日だった。家路に就いた時はじめて涙を流した。
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