【証言②】有度山周辺
有度村で陣地構築に携わった
前田義夫(まえだ よしお)さんの証言の記録(当時19歳 陸軍歩兵第410連隊〔護古22254部隊〕兵士)
1926(大正15)年生まれ
元気なころ.70 代後半
子どもは娘ばかり4人だったからでしょうか、父から戦争体験を聞いたことはありませんでした。
私の育った時代は高度経済成長期で、大阪にて開かれた万国博覧会や沖縄海洋博のことなど妹たちと話をしておれば、急に父は「月月火水木金金、俺達は明日のない時代を生きてきたんだ」と言って話を切ってしまうのでした。8月15日の終戦記念日には正午の時報に合わせて黙とうをささげるサイレンが鳴ると、父はわざと音を立て茶碗からご飯をかきいれるのです。
昭和20年4月、父は「護古22254部隊」に配属されます。駿河区池田にある青龍山本覚寺に寝泊まりし、上陸してきた米軍の戦車に爆弾を抱いて突っ込む作戦で、待機している穴を掘っていました。総勢60人が三交代制です。
20代のころ
6月19日のその日は、午後3時から夜中の11時まで、班の作業を終えて横になったところ空襲が始まりました。静岡大空襲です。翌朝、静岡出身の者に外出許可がおりたそうです。出かけると曲金(まがりかね)のあたりは煙がもうもうとしていたそうです。葵町に着くと、焼けた家の前に父親の六之助の兄角太郎さんが立っていて、籠上中学校に避難したことを教えてもらい、そこで家族と再会しました。この時父は白い着物でいたと叔母の富子さんから聞きました。本覚寺までの帰り道に焼け残った草原があったので、門限まで横になって休んだそうです。
平成26年8月父は間質性肺炎で亡くなりました。
ベッドで鼻に管を入れ酸素を吸う父のそばにいて戦争のことを繰り返し尋ねました。
「お父さんが出征するとき、母親のふくさんは何と言って見送ってくれたの?」「覚えてねえなあ」。そんな会話から始まりました。「無事に帰ってこれたときは、なんといって迎えてくれたの」「覚えてねえなあ。帰ってくるとお風呂が沸かしてあり、入るときにドラム缶に腰骨がコツンと当たって痛かったなあ。骨と皮だけだったもんなあ」。目をつぶり、瞼を震わせて「ひでえっけなあ」と言って、また話し始めてくれました。(中略)
復員は8月19日、日曜日。家族面会日になっていて、家族が迎えに来た者は一緒に帰っていいということで、父親の六之助と帰ってきたそうです。町内で一番遅くに出征し一番早く帰ってきたことを、申し訳なさそうに言いました。
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