【証言①】有度山周辺
有度山で兵士の壕掘りを目撃した
服部禎之(はっとりよしゆき)さんの証言(当時 国民学校高等科1年 兵士の壕掘りを目撃 その後調査)
1933(昭和8)年生まれ
インタビューを受ける服部さん
防空壕は一般市民が作りそこに自分たちが入るが、有度山の壕は軍隊によって掘られていた。平沢へ上がっていく現在の美術館の下の道の竹やぶの中に砲弾が積んであったことや、三島の砲弾が美術館の下に積んであったことを記憶しているが、それは山に運ぶ前の段階であるので、それらは防空壕ではなく、本土決戦壕であったと思う。
昭和20年3月に有度国民学校を卒業した。4月に母校に軍隊が入ってきて、軍隊と子どもたちが学校を共用する状態となった。有度山の陣地構築の部隊だという。4月3日から4日にかけて三菱の工場をねらった空襲があり、爆弾が実家の持山のあたりに落ちた。5月から6月頃には有度山に兵隊たちが駐屯するようになった。自宅から持山まで薪を取りに行く途中に、10畳ほどの掘立小屋が3つあり、そこに兵隊が暮らしていた。山全体にはさらに多くの兵隊がいたようだ。平沢まで(陸軍の)電話も引かれた。現在の野外劇場近くの崖の中腹にある壕は平沢の方角から馬や兵隊を使って掘ったという話だが、馬は塹壕を掘った後の廃土を運ぶのに使ったのだと思う。崖の下からつづら折りに道が続いていたため、下から容易に向かうことができた。
10代後半の服部さん.平沢観音で.(右)
7月7日の清水空襲では有度国民学校の一部が燃えた。
軍隊が学校に留まり続ける一方で、子どもたちは学校を出されて各部落の寺で学習しなければならなかった。終戦直前には、草薙駅西の旧東海道の松並木の下に装甲車が何台も置いてあったのを見た。燃料の入ったドラム缶もあった。
戦後開けてみたらアルコールだった。
静岡の決戦壕は掘削や弾薬の運搬などは進んでいたが、大砲などの兵器は調達がほとんどできていなかったようだ。戦後になり、その場所や武器を子どもたちが遊び道具とすることによる事故なども起きた。現在の県立大学のテニスコートのある場所に大きな壕が2つあった。戦後になってからそれらの壕に入ってみたら、砲弾があり、その砲弾口には、その砲弾が国道1号を目標にした狙撃のためのものであるという旨を描いた図が貼られていた。その壕も本土決戦用に作られた壕であることが分かった。
(参照:「本土決戦」壕戦争遺跡調査地図記号D)
なぜ本土決戦壕を世に広めようと考えたかと言うと、静岡県内全域の戦争に関する遺跡についてまとめている本はあるが、静岡市付近に関する記述は非常に少なかった。しかし実際にはたくさんの戦争遺跡が静岡市付近にもあると考えており、その中の一つに本土決戦壕があった。そういった出来事を機に本土決戦壕の情報を収集し、自分の記憶も頼りにしつつ、各地の本土決戦壕場所を確認したり、調査するようになった。決戦壕の調査をするようになってから、壕の所在を知っている人物を探した。谷津山にあった防空壕を一緒に探した人もいた。鳥坂山の周辺にはまだ事情を知っている方がいるかもしれない。
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