日本軍の中国空爆:錦州・重慶

日本軍の中国空爆:錦州・重慶

 

 しかし、日本は空襲の被害国であっただけではありません。
戦争の初期には、日本軍が中国の都市への空爆を何年にもわたって行っていたことを忘れてはなりません。

日本軍の錦州空襲

 満州事変開始直後の1931年(昭和6)10月8日、日本軍は全満州(中国東北部)の占領を目指して、錦州(地図①)を空爆しました。
(静岡民友新聞 1931年10月10日 夕刊)

日本軍の重慶空爆

 右は、身を守るため防空壕へ避難する重慶市民。
(太平洋戦争研究会編『図解・日中戦争』より)
©近現代フォトライブラリー

 日本軍は、1938年(昭和13)から1943年まで中国四川省重慶(地図②)(臨時首都)に合計211回にのぼる無差別爆撃を行いました。
 1939年5月の爆撃で、重慶中心部の居住地は火の海と化し、5000人が死傷しました。
(『重慶戦紀事』より)


県下の空襲

静岡県下の空襲

 

浜松空襲 -何回も何回も-
 米軍B29搭乗員は、空襲の際、天候不良などで指定された目標が攻撃できない場合、浜松に投弾するよう指示されました。プロペラ工場等があった浜松は、米軍から軍需拠点と見られ、その上東京・名古屋への飛行ルート上で、レーダーでの位置確認も容易だったためでした。

 浜松市は第1回中小都市空襲の攻撃目標に選定され、1945年6月18日未明、B29、130機の空襲を受けました。投下された焼夷弾は合計で827トン。

 目撃証言など地上で確認された浜松への空襲は27回です。死者は、資料によって2447人・2947人・3239人・3554人とあり、正確にはわかりません。
 浜松の空襲被害は、横浜市に続き全国6位の規模といわれています。

(米国立公文書館資料)
工藤洋三さん提供

 

Tactical Mission Report (作戦任務報告書)秘密

野戦命令第1号 作戦任務第271,272,273,274号
目標:沼津,大分,桑名,平塚の市街地 1945年7月16-17日
(以下,沼津市の報告の概要を紹介する)

任務計画
目標の重要性
 兵器製造、電気冶金、電気機器、軽機、繊維工業が集中する重要な地域を抱えている。東海道本線の重要な分岐点でもあり、軍の主軸部隊が存在する。また各種商業活動が行われ、沿岸輸送港を持つ。
実行計画
 第58航空団の1群団はМ47焼夷弾を、他の3群団はМ17集束焼夷弾を搭載し、高度3000m~3200mで爆弾投下、後者は約1500mの高度で解束する。この地域の鋼鉄製やコンクリートの建造物を破壊するために、貫通力の大きいM17を使用。M47は22m、M17は15m感覚で投弾するように調整した。
・爆撃中心点として、狩野川が大きく曲がる地点の真北を選んだ。ここを中心とする半径1.2kmの円内に市の重要部分がすべて含まれる(付篇A)。
・攻撃ルートは、硫黄島-駿河湾西岸-目標-硫黄島とする。
空対空地対空情報
 目標は、6門は確実であと推定18門の重高射砲と、23問の中高射砲、2~6台のサーチライトで防衛されているが、攻撃は微弱で不正確であると予測される。
任務の実行
 第58航空団は119機、圧縮度(爆撃時間)99分で、1149tの爆弾を目標に投下した。
・B29同士の空中衝突を避け爆撃範囲を広げるため、計画より投弾高度を上げた。
・雲量が10/10のため目視攻撃ができず、レーダー不調の機は他の方法をとった。
・敵機の攻撃:21機が目撃されたが、攻撃はなかった。
・対空砲火:44期が目標上空で重・中高射砲による脆弱・不確実な砲火を報告。
損害評価
 市街地に与えた損害は同市の総面積の89.5%だった。
 識別番号1181・鉄道駅操車場機関車庫/軽い損害
 識別番号壱拾ⅩⅩⅠ6050・不特定産業(兵器分野)/約35%破壊
 識別番号なし・不特定産業地域(3)/100%破壊
 不特定産業地域(1)/80%破壊 東端2橋100%破壊
 市街地外の損害は、ⅩⅩⅠ6050の.12mileが破壊され、識別番号90.1-2016
 国産電機製造株式会社三島工場の建物3棟が破壊された。

沼津空襲
 軍事施設と軍需工場、港湾施設が多く、東海道本線の重要な分岐点でもあった沼津市では、1945年1月から8月にかけて8回の空襲を受けました。

 7月17日未明の空襲では、マリアナ基地を出撃した米軍機119機が沼津市街地を襲い、合計940トンもの焼夷弾を投下しました。

 この結果9523戸を焼失、274人の死者を出す被害を受け、米軍が爆撃目標にした沼津市の中心市街地の89.5%を破壊されました。面積焼夷率は全国で2番目でした。

島田空襲
 原爆投下部隊の訓練のための空襲でした。

 1945年7月26日の朝、マリアナのテニアン島から飛来した1機の米軍B29が、4.5トンもある特殊高性能爆弾を島田町扇町に投弾しました。長崎に投下した原子爆弾と同じ形で黄色に塗り、「パンプキン」と名づけた爆弾でした。

 

 その日出撃した6機の攻撃目標は富山の軍需工場でしたが、富山上空が雲に覆われていたため、反転した機が島田に投下したのです。

 たった1発により即死者35人、重傷を負い、死に至った人14人、負傷者150余人。たくさんの家族の運命が一変しました。

 富山から反転した機のうち、1機は焼津の瀬戸川土手へ、他の1機は浜松市将監町へ投弾しました。

 


日本の防空体制と静岡

※写真をクリックすると拡大表示されます。

 航空機による空爆戦を想定した日本は1937年(昭和12)4月に「防空法」を公布。「防空法」は国民に対して防空義務を課し、やがて「都市からの退去禁止」や「空襲時の応急消火義務」が追加され、罰則も強化されました。
 1939年には警防団がつくられ、隣組を指導し、焼夷弾の火を消す訓練などを行いました。静岡市民は度重なる訓練と毎日の灯火管制を強いられ、日常生活に警防団が介入するようになっていったのです。
 飛来する米軍機をいち早く見つけ日本軍へ伝えるために1941年12月に防空監視哨が各地に置かれました。
 空襲が頻繁になると、屋外に防空壕を掘るよう、内務省より各家庭に命令が出されました。しかし、資材が不足する中、畳をあげて床に穴を掘っただけの防空壕も珍しくはなく、実際の空襲では防空壕内で亡くなった人も多かったのです。
 いずれにしてもこれら防空体制は、国家防衛を目的としたもので、国民を守るものではありませんでした。

写真「消火訓練」
写真「消火訓練」

(山梨龍平さん撮影)

写真「清水防空監視哨」
写真「清水防空監視哨」

(丸山逸雄さん寄贈)

 

灯火管制用電球
灯火管制用電球

(藤安義勝さん寄贈)

灯火管制用電灯傘
灯火管制用電灯傘

(長島麻夫さん寄贈)

空襲警報板
空襲警報板

(早川克美さん寄贈)

 

火たたき(複製)
火たたき(複製)

(平和資料センター製作)

防空頭巾
防空頭巾

(鈴木孝子さん寄贈)

 

 防空監視哨――帝国陸軍の組織で、敵機を発見したら直ちに防衛司令官に報告する役目を担った。敵機に対して軍備を整え、近隣住民に警報を発令した。主に青年学校の生徒が動員され、太平洋戦争が始まったころからは、24時間体制で行われた。1944年11月1日に初めて日本に飛来したB29を識別したのも、伊豆半島の稲取の防空監視哨の青年だった。


B29と焼夷弾

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 アメリカ軍による本格的な本土空襲が始まったのは1944年(昭和19)11月でした。最新鋭の重爆撃機B29が投入され、日本の木造家屋を焼くのに適した焼夷弾の開発も進められていました。空襲は当初の軍事・軍需施設を狙ったものから、東京などの大都市無差別爆撃を経て、中小都市の爆撃へと移り、日本中を焼き尽くしていきます。静岡・清水も1945年6月と7月の2度の大空襲を含む計26回もの空襲を受け、街は壊滅状態になりました。

爆撃中のB29
爆撃中のB29(工藤洋三さん提供)

 B29は、第二次大戦中に登場したアメリカ・ボーイング社製の高性能の大型爆撃機である。全長約30m、最大航続距離は約9,000kmを超え、多くの爆弾を積むことができるため「超空の要塞」と呼ばれた。日本への空襲はほとんど本機により行われ、広島・長崎への原爆投下にも使われた。

 

焼夷弾の実物

 

静岡に投下されたM69焼夷弾

(松田八郎さん寄贈)

M19集束焼夷弾の構造図

 

M19集束焼夷弾頭部

(辻宣道さん寄贈)

M18集束焼夷弾尾部

(原川辰郎さん寄贈)

M19集束焼夷弾側板

(青島幸?さん寄贈)

 

M47焼夷弾

(青島幸?さん寄贈)

M50焼夷弾

(松田八郎さん寄贈)

 


証明書が伝える空襲の爪あと

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「罹災証明書」

飯塚須恵子さんの罹災証明書
静岡市長が発行(飯塚実さん寄贈)

芝田宇之助さんの罹災証明書
清水市長が発行(芝田剛さん寄贈)

 

 罹災証明書は、空襲などにより被災したことを証明する書類。空襲で家を焼かれた者は、この証明書を提示することによって、鉄道の乗車券が優先して発行され、避難先でも食糧の配給が受けられた。静岡市は6月20日の空襲後に、各避難所、駅前、市役所で罹災証明書の交付をはじめ、23日までに24,800枚を発行した。

 
 

「死亡証明書」

葵ちゃんの写真(1943年) 

葵ちゃんの死亡証明書

 

 1943年夏、2歳の矢部葵ちゃんは、三重県の志摩に出征中であった父親を訪ね、家族とともに笑顔で写真に納まった。葵ちゃんは2年後の静岡空襲で頭部に焼夷弾の直撃を受けて亡くなった。
 復員した父親が大切に保管していた葵ちゃんの死亡証明書が、その死後に家族によって発見された。
 (矢部正昭さん寄贈)

 

※ 空襲犠牲者名簿についてお願い
 当センターでは静岡市戦災遺族会の資料に基づき、2017年6月に空襲犠牲者名簿をまとめました。判明しているのは静岡市1089名、清水市242名です。まだ多くの方のご氏名が不詳のままです。ご存じの方は当センターまでお知らせください。名簿はホームページでご覧ください。

本土決戦関連年表

本土決戦関連年表

月日 日本 世界
1944 6.6 連合軍、ノルマンディーに上陸
6.15 米軍、サイパン島に上陸
6.19 マリアナ沖海戦
7.7 サイパン島の日本軍守備隊、玉砕
7.18 東条内閣、総辞職
7.20 参謀総長「本土沿岸築城実施要綱」
(九十九里浜、鹿島灘、八戸付近に陣地構成を命令)
7.21 関東地方を防衛するための大本営直轄部隊第36軍(初の本土決戦兵団)を編成
7.22 小磯内閣、組閣
7.24 大本営「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」
(決戦「捷号作戦」準備を命令。本土方面は捷3号作戦)
8.1 ワルシャワで民衆蜂起
8.4 内閣「国民総武装」閣議決定。職場・学校で竹槍訓練開始
8.19 御前会議「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱」決定(「捷号作戦」確認、大本営「島嶼守備要領」伝達。水際防御(上陸阻止)→航空決戦+内陸防御に転換。航空決戦を重視)
8.25 連合軍、パリ解放
10.13 関東地区担当の東部軍司令部が沿岸築城(砲台・レーダー基地)開始命令
10.17 米軍、フィリピン・スルアン島上陸
10.18 大本営「捷1号作戦」(フィリピン方面、レイテ決戦)発動→本土での決戦準備が遅れる
10.20 米軍、レイテ島上陸
10.23 レイテ沖海戦(~26日まで)
(神風特攻隊、初出撃。連合艦隊、壊滅)
11.1 第36軍が防衛総司令官の隷下に入り作戦準備開始
内陸部に配置されたが、沿岸部砲台構築
11.8 ローズヴェルト、米大統領選挙で史上初の4選
12.15 米軍、ミンドロ島に上陸
12.16 ドイツ軍、ベルギー北東部アルデンヌで連合国軍に最後の反撃(バルジの戦い)
12.18 大本営が密かにレイテ決戦を断念し、ルソン持久戦へと方針転換。本土決戦に関心
1945 1.17 ソ連軍、ワルシャワ占領
1.20 大本営「帝国陸海軍作戦計画大綱」(初秋までの本土・朝鮮の作戦準備を定める。参謀本部はあらたに150万人動員を計画)
2.4 米・英・ソ、ヤルタ会談
2.6 大本営が部隊の組織改編
(軍管区司令部〔軍政〕と方面軍司令部〔決戦任務〕の二本立てに)
3.7 米軍、ライン河を渡河
3.16 大本営陸軍部「国土築城実施要綱」制定
(遅れていた陣地構築10月完成を促す)
3.23 政府「国民義勇隊の結成」閣議決定

(国民全体を軍隊の補助要員とするための措置)
3.27 「軍事特別措置法」公布(5。5施行)

(私有財産の軍用転化を合法化)
4.1 米軍、沖縄本島に上陸
4.5 小磯内閣、総辞職
4.7 鈴木貫太郎内閣、組閣
4.8 大本営「決号作戦準備要綱
(本土決戦=「決号作戦」。10月以降に関東南部か九州に米軍上陸を想定。関東は決3号〔第12方面軍〕、九州は決6号〔第16方面軍〕で準備。上陸阻止へ転換)
4.12 大本営陸軍部「国民築城必携」配布 ローズヴェルト死去.トルーマンが大統領に就任
4.13 政府「情勢急迫セル場合ニ応ズル国民戦闘組織」閣議決定
(国民義勇隊は決戦時に参戦が決定)
4.15 大本営、内地防衛部隊を再編成
(第1総軍・第2総軍・航空総軍に編成)
4.20 大本営陸軍部「国土決戦教令」
(部隊の持久・後退を不許可。水際決戦、総特攻思想が高まる)
4.22 ソ連軍、ベルリン突入
4.28 ムッソリーニ、パルチザンに処刑される
4.30 ヒトラー、総統地下壕で自殺
5.7 ドイツ、無条件降伏
6.8 御前会議「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱」決定
(本土決戦方針確認、実際の準備措置開始)
6.10 地方総監府を全国8か所に設置
6.17 大本営陸軍部「国土築城実施要項追補」制定
6.18 東部軍管区司令官、8月以降に松代大本営が使用できるように工事実施命令
浜松空襲
6.20 参謀本部「本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件」
(沿岸配備兵団の持久・後退を禁止。玉砕強要)
静岡空襲
6.23 「義勇兵役法」公布即日施行
沖縄における日本軍守備隊の組織的抵抗の終了
7.7 清水空襲
7.17 「第1総軍決号作戦計画」「第1総軍決戦綱領」
7.28 米英中のポツダム宣言を日本政府、黙殺
7.31 清水艦砲射撃
8.6 広島に原爆投下
8.9 長崎に原爆投下 ソ連、日本に宣戦布告し満州に侵攻
8.14 日本政府、連合国にポツダム宣言受諾を通告


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アメリカ軍の日本本土上陸作戦

アメリカ軍の日本本土上陸作戦

1.ダウンフォール作戦 ―2段構えの地上戦―

 

オリンピック作戦の原型を示した図

オリンピック作戦の原型を示した図
1944年7月に作成されたもの(米国立公文書館蔵/工藤洋三提供)

 1945年8月末、連合国軍最高司令官マッカーサー率いるアメリカ軍は日本本土に進駐した。本土への空襲、原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て、日本は14日に降伏していた。
 日本が降伏しなかった場合、アメリカ軍は日本本土に上陸して地上戦を開始することを計画していた。「破滅」を意味するダウンフォール(DOWNFALLoperation)という暗号名で呼ばれたこの作戦は大きく2つの作戦に分けられていた。ひとつは、1945年11月1日に宮崎海岸(宮崎)、志布志湾および吹上浜(鹿児島)の3地点から上陸して南九州に航空機の基地を確保するオリンピック作戦(OLYMPICoperation)である。オリンピック作戦は、翌年3月1日に九十九里浜(千葉)と相模湾(神奈川)より関東平野に上陸して首都・東京の制圧を目指す、もう一つの作戦であるコロネット作戦(CORONEToperation)に備えることを目的としていた。ダウンフォール作戦は、すでに1944年にはアメリカを中心に原型ができあがっていた。1945年になると、作戦の見直し、装備や食料の備蓄が進んでいく。

 

2.オリンピック作戦とコロネット作戦

オリンピック作戦 1945年11月

 1945年5月末、アメリカ統合参謀本部は「ダウンフォール作戦計画」を正式に認可した。まず、「オリンピック作戦司令」が発令され、最高指揮官にはマッカーサー陸軍大将が選ばれた。

 オリンピック作戦においては、主力である陸軍の第6軍57万人(戦闘要員34万人と支援要員23万人)が、上陸部隊として投入される計画だった。侵攻前から、第3艦隊、第5艦隊、極東航空軍、第8航空軍および第20航空軍による、絶え間ない艦砲射撃や空襲といった緊密な上陸支援が予定されていた。上陸後の各部隊は、海と空からの支援を受けながら北上して南九州を制圧する。そこにB29などの航空機基地や海上封鎖のための海軍基地を設営して、コロネット作戦に備える予定だった。

コロネット作戦 1946年3月

 コロネット作戦では、陸軍の計画によると、第1軍と第8軍が空海の支援の下で、九十九里浜と相模湾から上陸して、東と西からの挟み撃ちで東京を占領する予定だった。一部は北上して南北のルートを断ち、日本の増援部隊を阻止する。上陸開始日の兵力は52万人(戦闘要員36万人と支援要員16万人)、その後のヨーロッパ戦線からの再配備を含めた総兵力は100万人以上ともいわれている。侵攻前の180日間、東京湾一帯の防御陣地を艦砲射撃と空襲で壊滅させておく計画もあった。
 
 
 
 

3.オリンピック作戦の準備と静岡

急速に整備される極東航空軍の沖縄前進基地

急速に整備される極東航空軍の沖縄前進基地
日本人の労働力も使って整備が進む牧港飛行場 1945年7月6日撮影(米国立公
文書館蔵/工藤洋三提供)

 沖縄戦末期の6月18日、トルーマン大統領が主宰した戦略会議において、オリンピック作戦は最終的に承認された。「沖縄では将兵に35%の死傷者が出た」という報告を受けたトルーマンの懸念は、アメリカ軍の被害予測であった。しかし、議論の末に「日本本土侵攻では、第2の沖縄が再現されないように望む」と述べ、統合参謀本部の計画にゴーサインを出したのだった。一方のコロネット作戦は保留状態にされた。死傷者数はオリンピック作戦のみで13万人、コロネット作戦を合わせると19万人、事故や病気による死傷者まで入れると25万人を超えるという想定もあったからである。

第3艦隊艦載機の空襲を受ける日軽金蒲原工場

第3艦隊艦載機の空襲を受ける日軽金蒲原工場
(米国立公文書館蔵/工藤洋三提供)

 7月に入ると、オリンピック作戦の準備行動が開始された。第3艦隊は7月10日の東京を皮切りに8月15日まで艦載機空襲と艦砲射撃を行った。7月30日には浜松や蒲原が、31日には清水が攻撃を受ける。沖縄に前進基地を確保した極東航空軍は、7月29日の枕崎から8月12日の宮崎までの短期間で南九州の主要な都市を焼き払った。日本軍の飛行場を無力化し、輸送網と都市を破壊しておくためである。7月から8月にかけて、陸海軍の各指揮官と部隊、艦隊、航空機、そして物資が続々と沖縄に到着しつつあった。

 7月16日、最高の国家機密として進められていた原子爆弾が完成した。ポツダム会談に出席していたトルーマンは、本土侵攻作戦によって失われる多くの「若いアメリカ人の命を救」い、ソ連も牽制できる手段として、原子爆弾の使用を決断する。26日、日本に降伏を求めるポツダム宣言が出された。8月6日と9日に2発の原子爆弾が投下されて間もなく、日本は降伏する。その一方で、原爆の投下後も、空襲を含むオリンピック作戦の準備行動は、15日に戦闘中止命令が出る直前まで断続的に続けられていた。

 

4.ブラックリスト作戦 ―降伏後の青写真―

ブラックリスト作戦の基本構想を示した図

ブラックリスト作戦の基本構想を示した図
1945年7月に作成されたもの 濃紺の矢印が最重要地域(米国立公文書館蔵/工藤洋三提供)

 ダウンフォール作戦と並行して、日本の早期降伏や突然の崩壊の可能性を想定した作戦もアメリカ軍は計画していた。ブラックリスト作戦(BLACKLISToperation)という暗号名のこの作戦は、1945年4月頃から計画され、7月にはマッカーサーによる原案が完成していた。そこには、本土上陸前に日本が降伏した場合に、東京などの重点地域から順に3段階に分けて占領を進めること、アメリカ軍の単独占領であること、間接統治の方法を採ることなど、本土や朝鮮半島の統治に関する基本的な考え方や手順が示されている。占領軍の総兵力は日本本土が72万人、朝鮮が11万とされた。糸魚川(新潟)と小田原(神奈川)を結ぶ線より東を第8軍が、静岡を含む西は第6軍が占領する計画だった。

 日本の降伏によってダウンフォール作戦が実施されることはなかった。ブラックリスト作戦に基づいてアメリカ軍は日本本土に無血上陸したのである。その後もブラックリスト作戦は、戦闘終了後のさまざまな条件の中で見直され、修正を加えながら実施されていった。

 


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【証言7】陸軍歩兵第410連隊の第6中隊長を務めた -青嶋茂大尉について-

【証言⑦】

陸軍歩兵第410連隊の第6中隊長を務めた

青嶋茂大尉(あおしま しげる)について

※写真をクリックすると拡大表示されます。

 青嶋茂は1914(大正3)年清水に生まれた。1932(昭和7)年に卒業した県立庵原中学校(現・清水東高等学校)では野球選手として活躍する。1937年には中央大学専門部法学科を卒業した。
 大学卒業後の1938年歩兵第34連隊に入隊する。日中戦争が長期化するなか、華北・山西省の独立歩兵第15大隊第3中隊に転属となった。鉄道を中心とした治安警備を主任務とする大隊は、八路軍(共産党軍)や国民政府軍との戦闘にも参加する。1940年1月の戦闘で、茂は中隊の尖兵として小隊を率いた。8月には(石太線に主攻を向けた)八路軍の大部隊による奇襲を受け、大隊は苦境に陥った(中国側呼称 「百団大戦」)。茂は、「重囲下の分遣隊に日の丸はへんぽんたりと飛機報告す」と詠んでいる。その年の冬から腎臓病を患い、帰国して入退院を繰り返した。
 1945年再召集された茂は、歩兵第410連隊第2大隊第6中隊長として有度山で陣地構築を指揮した。小沢繁作第4中隊長、中村誉第5中隊長らとともに平沢にいたという。
 戦後は第410連隊の同僚との縁もあって、食糧配給公団に勤務する。しかし、戦地で病んだ腎臓は完治せず、1953年11月突然倒れ、その日のうちに亡くなった。39歳。妻と幼い子どもたちが残された。
④中尉のころ
④中尉のころ


②1940.8. 山西省平定県城孔子廟にて

③1940.11. 近所の中国人の少女と.病気にかかる1か月前ころ

⑤静岡浅間神社にて挙式
年月日 青嶋茂さんの年譜 写真
1914.11.3 清水に生まれる  
1932.3.4 静岡県立庵原中学校卒業  
1937.3.30 中央大学専門部法学科卒業
1937.7.7 日中戦争  
1938.1.10 現役兵として歩兵第34連隊補充隊(静岡)に入隊。第1機関銃中隊に編入  
1938.5.1 幹部候補生に  
1938.7.1 上等兵に
1938.7.18 甲種幹部候補生に  
1938.9.1 豊橋陸軍教導学校に入校。伍長に
1938.12.1 軍曹に  
1939.3.9 豊橋陸軍教導学校卒業帰隊。曹長、見習士官に  
1939.4.15 神戸港から中国・塘沽港上陸.
独立歩兵第15大隊に転属
 
1939.4.19 山西省・湯泉着.第3中隊附に
1939.4.20 岩会着.正太線南北地区の警備  
1939.6.24 士官勤務を命ぜられる  
1939.8.23-31 平定地区8月粛正討伐に参加  
1939.11.16 歩兵少尉に.予備役編入、引続き臨時召集  
1940.1.13-1.20 平定県測魚鎮付近討伐に参加  
1940.1.27-2.3 新編第2師掃滅戦参加  
1940.2.7-2.8 平定県大石門口付近の戦闘に参加  
1940.3.22-3.24 皐落鎮付近共産軍掃滅作戦に参加  
1940.4.8-4.28 春季晋南作戦に参加  
1940.4.29-5.20 郷寧作戦に参加  
1940.5.21-6.4 臨汾付近の警備  
1940.6.7 平定着.石太線南北地区の警備  
1940.8.20-8.31 石太線反抗作戦に参加
1940.9.1-9.18 第1期晋中作戦に参加  
1940.9.15 少尉に  
1940.12.21 急性腎臓炎により陽泉陸軍病院に入院
1941.1.13 石門陸軍病院、北京陸軍病院に転送  
1941.8.1 中尉に
1941.8.15 国内の病院に送還のため塘沽港出帆  
1941.8.19 宇品港上陸.歩兵第33連隊(津)に転属
1941.10.1 軍備改変により歩兵第151連隊(津)に充用  
1941.10.9- 京都、東京、津陸軍病院に入退院  
1941.12.8 太平洋戦争  
1943.11.9 召集解除  
1944.11 軍需工場に勤務、静岡市にて結婚
1945.3.15 臨時召集により歩兵第34連隊補充隊に応召.第1機関銃中隊附に  
1945.4.1 歩兵第410連隊(清水)第6中隊長に  
1945.8.20 大尉に  
1945.9.21 名古屋師管区歩兵第2補充隊に転属  
1945.10.13 召集解除 / 御殿場に転居  
1947 長男誕生  
1948.8.1 食糧配給公団御殿場支所に就職  
1950 次男誕生  
1953.11.17 御殿場市にて死去  
中国戦線での移動(直線で表示)
A 塘沽港 F 郷寧
B 湯泉(陽泉) G 臨汾
C 岩会.正太線
(のち石太線)
H 晋中:山西省
東部域
D 平定 I 北京
E 晋南:山西省
南部域

①1934.7.1神田駿河台の中央大学正門にて
[写真と資料 2020年7月23日 長男・青嶋孝明さん提供]

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体験画が語るひとりひとりの空襲

※写真をクリックすると拡大表示されます。

 戦時中は空襲被害に関する写真撮影が厳しく規制されていたため、当時の状況を伝えるものはわずかしかありませんでした。そこで、「戦争を記録し、次世代に伝えることが戦争抑止への力になる」と考えた私たちは、戦後40年と60年の節目に空襲体験画を募集しました。多くの静岡・清水市民の協力で、125枚の体験画が集まりました。その後寄せられたものを合わせると153枚になります。ここで紹介するのはその一部です。なおホームページには80枚の体験画が載っていますのでご覧ください。

体験画 静岡空襲

布団を被って火を防ぐ
桑原政江さん(当時12歳 伝馬町)

折り重なって窒息死
宇野ヒサ江さん(当時19歳 西千代田町)

伯父一家の死

小長谷澄子さん(当時21歳 二番町)

目に焼きつく黒、白、青の色

小川孝太郎さん(当時15歳 駒形通1丁目)

田町国民学校救護所

垂脇てるさん(当時24歳 新富町6丁目)

渦を巻く赤い竜巻

田中春江さん(当時23歳 二番町)

体験画
清水空襲、艦砲射撃

姉はわが子を抱いて死んだ

関 道子さん(当時12歳 入江浜田)

教会前の坂・少年への鎮魂

鈴木玲之さん(当時17歳 万世町)

テルファの海へ逃げる

杉山昭三さん(当時17歳 万世町)

艦砲射撃

澤 花子さん(当時26歳 駒越)


静岡空襲 1945年6月20日 / 清水空襲 1945年7月7日

静岡空襲 1945年6月20日

 

 グアム島を飛び立ったB29は、静岡地区上空に低空で侵入、123機で爆撃を開始しました。最初に焼夷弾が投下されたのは、20日0時51分でした。瞬く間に火災は静岡駅周辺から市役所・県庁等、市の中心部に広がり、呉服町・鷹匠町・水落町、そして末広・安西・番町方面にも火炎の嵐が吹き荒れました。安倍川には焼夷弾の油脂が流れ、引火して、避難してきた多くの人が犠牲となったのです。

 この時投下されたのは、M69焼夷弾とM47焼夷弾が合計787トン。約2時間で市街地5.9㎢ (米軍が目標とした市街地の66% )が焼失し、1800人以上の命が奪われました。

 6月19-20日の第2回中小都市空襲では、静岡のほか豊橋・福岡も目標とされました。

静岡リト・モザイク

 1945年2月に作成された静岡市街地のリト・モザイク(石版集成図)。
 米軍は、どの地点を攻撃すれば最も効率よく市街地を焼き払うことができるかを分析し、決めた。この点を「爆撃中心点」とよぶ。
 静岡市の爆撃中心点は本通と呉服町の交差点に設定されていた。
 この点を中心に半径1.2㎞の円を描き、円内に投下焼夷弾の半量が着弾すれば、静岡市の主要部分は壊滅すると考えていた。

中小都市空襲のために選ばれた日本の180の市街地リストの一部。清水は71番目

 
 
 
 

清水空襲 1945年7月7日

 

 テニアン島を発進したB29は133機で清水地区上空に侵入。爆撃中心点は巴川と東海道線の交差する地点です。燃焼性の高いM47焼夷弾と、強力な貫通力を持つM50焼夷弾の組み合わせで合計934トンが投下されました。0時33分から約1時間30分の間に街は炎上。火を逃れて港の海や巴川、また港橋や万世橋の下に身を隠した人々の中には、水かさの増した川に流されて溺死した人もいました。この時の空襲で、米軍が目標とした清水市街の50% が焼失、151人の命が奪われました。

 7月6-7日の第6回中小都市空襲では、清水のほか千葉・明石・甲府も目標とされました。
 また、7月31日未明の艦砲射撃は清水の人々を恐怖に落とし入れました。相生町、松原町、中町、美濃輪、下清水が被害を受け、44人が犠牲になりました。

清水リト・モザイク

 1945年3月に作成された清水市街地のリト・モザイク。
 清水の爆撃中心点は巴川と東海道線の交差する地点に設定された。

 静岡・清水は1944年の暮から敗戦までの間に米軍による空襲と艦砲射撃を26回受けています。1945年4月4日の三菱重工業静岡発動機製作所(軍需工場)をターゲットとした空襲は目標をはずれ、住民に多くの犠牲者を出しました。静岡・清水両地区で194人の命が奪われたのです。