日本軍の中国空爆:錦州・重慶 日本軍の中国空爆:錦州・重慶 しかし、日本は空襲の被害国であっただけではありません。 戦争の初期には、日本軍が中国の都市への空爆を何年にもわたって行っていたことを忘れてはなりません。 日本軍の錦州空襲 満州事変開始直後の1931年(昭和6)10月8日、日本軍は全満州(中国東北部)の占領を目指して、錦州(地図①)を空爆しました。 (静岡民友新聞 1931年10月10日 夕刊) 日本軍の重慶空爆 右は、身を守るため防空壕へ避難する重慶市民。(太平洋戦争研究会編『図解・日中戦争』より) ©近現代フォトライブラリー 日本軍は、1938年(昭和13)から1943年まで中国四川省重慶(地図②)(臨時首都)に合計211回にのぼる無差別爆撃を行いました。 1939年5月の爆撃で、重慶中心部の居住地は火の海と化し、5000人が死傷しました。 (『重慶戦紀事』より) 第1部 空襲TOPにもどる 展示第二室TOPにもどる 日本軍の錦州空襲 × 満州事変開始直後のの1931年(昭和6)10月8日、日本軍は全満州(中国東北部)の占領を目指して、錦州(地図①)を空爆しました。 (静岡民友新聞 1931年10月10日 夕刊) 日中戦争時代の中国 × ①錦州 ②中国四川省重慶 日本軍の重慶空爆 × 日本軍は、1938年(昭和13)から1943年まで中国四川省重慶(地図②)(臨時首都)に合計211回にのぼる無差別爆撃を行いました。 1939年5月の爆撃で、重慶中心部の居住地は火の海と化し、5000人が死傷しました。 (『重慶戦紀事』より) 日本軍の重慶空爆 × 身を守るため防空壕へ避難する重慶市民。(太平洋戦争研究会編『図解・日中戦争』より)