静岡県下の空襲
浜松空襲 -何回も何回も-
米軍B29搭乗員は、空襲の際、天候不良などで指定された目標が攻撃できない場合、浜松に投弾するよう指示されました。プロペラ工場等があった浜松は、米軍から軍需拠点と見られ、その上東京・名古屋への飛行ルート上で、レーダーでの位置確認も容易だったためでした。
浜松市は第1回中小都市空襲の攻撃目標に選定され、1945年6月18日未明、B29、130機の空襲を受けました。投下された焼夷弾は合計で827トン。
目撃証言など地上で確認された浜松への空襲は27回です。死者は、資料によって2447人・2947人・3239人・3554人とあり、正確にはわかりません。
浜松の空襲被害は、横浜市に続き全国6位の規模といわれています。
(米国立公文書館資料)
工藤洋三さん提供
Tactical Mission Report (作戦任務報告書)秘密
野戦命令第1号 作戦任務第271,272,273,274号
目標:沼津,大分,桑名,平塚の市街地 1945年7月16-17日
(以下,沼津市の報告の概要を紹介する)
任務計画
目標の重要性
兵器製造、電気冶金、電気機器、軽機、繊維工業が集中する重要な地域を抱えている。東海道本線の重要な分岐点でもあり、軍の主軸部隊が存在する。また各種商業活動が行われ、沿岸輸送港を持つ。
実行計画
第58航空団の1群団はМ47焼夷弾を、他の3群団はМ17集束焼夷弾を搭載し、高度3000m~3200mで爆弾投下、後者は約1500mの高度で解束する。この地域の鋼鉄製やコンクリートの建造物を破壊するために、貫通力の大きいM17を使用。M47は22m、M17は15m感覚で投弾するように調整した。
・爆撃中心点として、狩野川が大きく曲がる地点の真北を選んだ。ここを中心とする半径1.2kmの円内に市の重要部分がすべて含まれる(付篇A)。
・攻撃ルートは、硫黄島-駿河湾西岸-目標-硫黄島とする。
・爆撃中心点として、狩野川が大きく曲がる地点の真北を選んだ。ここを中心とする半径1.2kmの円内に市の重要部分がすべて含まれる(付篇A)。
・攻撃ルートは、硫黄島-駿河湾西岸-目標-硫黄島とする。
空対空地対空情報
目標は、6門は確実であと推定18門の重高射砲と、23問の中高射砲、2~6台のサーチライトで防衛されているが、攻撃は微弱で不正確であると予測される。
任務の実行
第58航空団は119機、圧縮度(爆撃時間)99分で、1149tの爆弾を目標に投下した。
・B29同士の空中衝突を避け爆撃範囲を広げるため、計画より投弾高度を上げた。
・雲量が10/10のため目視攻撃ができず、レーダー不調の機は他の方法をとった。
・敵機の攻撃:21機が目撃されたが、攻撃はなかった。
・対空砲火:44期が目標上空で重・中高射砲による脆弱・不確実な砲火を報告。
・B29同士の空中衝突を避け爆撃範囲を広げるため、計画より投弾高度を上げた。
・雲量が10/10のため目視攻撃ができず、レーダー不調の機は他の方法をとった。
・敵機の攻撃:21機が目撃されたが、攻撃はなかった。
・対空砲火:44期が目標上空で重・中高射砲による脆弱・不確実な砲火を報告。
損害評価
市街地に与えた損害は同市の総面積の89.5%だった。
識別番号1181・鉄道駅操車場機関車庫/軽い損害
識別番号壱拾ⅩⅩⅠ6050・不特定産業(兵器分野)/約35%破壊
識別番号なし・不特定産業地域(3)/100%破壊
不特定産業地域(1)/80%破壊 東端2橋100%破壊
市街地外の損害は、ⅩⅩⅠ6050の.12mileが破壊され、識別番号90.1-2016
国産電機製造株式会社三島工場の建物3棟が破壊された。
識別番号1181・鉄道駅操車場機関車庫/軽い損害
識別番号壱拾ⅩⅩⅠ6050・不特定産業(兵器分野)/約35%破壊
識別番号なし・不特定産業地域(3)/100%破壊
不特定産業地域(1)/80%破壊 東端2橋100%破壊
市街地外の損害は、ⅩⅩⅠ6050の.12mileが破壊され、識別番号90.1-2016
国産電機製造株式会社三島工場の建物3棟が破壊された。
沼津空襲
軍事施設と軍需工場、港湾施設が多く、東海道本線の重要な分岐点でもあった沼津市では、1945年1月から8月にかけて8回の空襲を受けました。
7月17日未明の空襲では、マリアナ基地を出撃した米軍機119機が沼津市街地を襲い、合計940トンもの焼夷弾を投下しました。
この結果9523戸を焼失、274人の死者を出す被害を受け、米軍が爆撃目標にした沼津市の中心市街地の89.5%を破壊されました。面積焼夷率は全国で2番目でした。
島田空襲
原爆投下部隊の訓練のための空襲でした。
1945年7月26日の朝、マリアナのテニアン島から飛来した1機の米軍B29が、4.5トンもある特殊高性能爆弾を島田町扇町に投弾しました。長崎に投下した原子爆弾と同じ形で黄色に塗り、「パンプキン」と名づけた爆弾でした。
その日出撃した6機の攻撃目標は富山の軍需工場でしたが、富山上空が雲に覆われていたため、反転した機が島田に投下したのです。
たった1発により即死者35人、重傷を負い、死に至った人14人、負傷者150余人。たくさんの家族の運命が一変しました。
富山から反転した機のうち、1機は焼津の瀬戸川土手へ、他の1機は浜松市将監町へ投弾しました。