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「銃後の守りから総動員体制へ」
- 1929年(昭和4)、恐慌が世界に波及するようになると、日本では「万世一系の天皇をいただく特別な国」としての自国を誇るナショナリズムが広がっていきました。満州事変勃発以降、それは顕著になります。
- 1931年、満州事変から15年にわたる戦争の時代、戦地で戦ったのは日本軍兵士でしたが、それを銃後で支えたのは国民です。戦果を伝える報道に沸き立つ一方、家族や身近な人が召集され、物資も乏しくなっていきました。やがて死と隣り合わせの空襲が日常に—。
当時の人々が生きた時代はどのようなものだったのでしょう。 - 1937年、日中戦争が起こると近衛文麿内閣は「挙国一致」を呼びかけます。
- 1938年「国家総動員法」が成立。軍事力・経済力・人的能力のすべてを投入する総力戦の体制となります。
- 1940年、大政翼賛会が結成されると、10戸を単位とした隣組が組織され、伝達・配給・防空・監視・防諜などの役割が課せられるようなりました。
1941年12月、米・英との開戦を機に、大政翼賛会は活動の幅を広げ、総動員体制はさらに強圧的なものになっていきます。
「統制と耐乏の時代」
戦争が長引くと、日常生活の様々な分野で経済統制が行われ、軍需が優先されるようになります。「贅沢は敵だ」という標語が街にあふれ、戦費調達のための国債買い取りや貯蓄が奨励されました。1938年、綿糸・重油などが切符制に、米・砂糖・卵・醤油・塩や石鹸・煙草・野菜などが配給制になり、1943年末から、ほとんどの生活物資が配給統制になりました。配給通帳・切符なしに物品を購入することができなくなったのです。
戦争末期の1944年~1945年は米の代用品として小麦粉・大豆・いも・雑穀類なども登場するようになります。空腹をかかえ、勤労動員や農作業、食糧の調達に追われ、そのうえ空襲警報による寝不足も加わり、皆疲れていました。
戦争末期の1944年~1945年は米の代用品として小麦粉・大豆・いも・雑穀類なども登場するようになります。空腹をかかえ、勤労動員や農作業、食糧の調達に追われ、そのうえ空襲警報による寝不足も加わり、皆疲れていました。
「配給通帳制」――国から支給された手帳を持参すれば、配給所で安価に購入することができるという制度。米を例にとると、配給量は当初、大人一人当たり1日約330グラムだったが、1945年は大凶作が重なり、配給量が1割減、質もかなり低下した。
「切符制」――一人ずつ点数つきの切符が与えられ、交換所にて、その点数以内で買うことができるという制度。配給通帳と同様、切符は「買う権利」を示したもので、代金が必要。戦争末期には切符があっても現物がないということが頻繁に起こった。
(参考:『戦争とくらしの事典』)
「戦時の教育」
学校には1920年代後半から、天皇・皇后の写真(「御真影」)や教育勅語を置くための「奉安殿」が設置されるようになり、子どもたちは登下校の際に脱帽して最敬礼するよう、しつけられました。
1941年3月、「国民学校令」が公布され、小学校は国民学校と名を変えました。学校生活の目的は、天皇と国家に忠実に従う国民をつくりあげる事におかれ、小学生は「少国民」と呼ばれました。また、中等教育の生徒を軍需工場での働き手にする勤労動員はやがて通年となり、1943年秋からは「学徒出陣」も行われるようになりました。
1944年8月から、国民学校初等科の子どもを郊外へ集団移住させる「学童疎開」が始まり、静岡・清水にも東京の子どもたちがやってきました。
1941年3月、「国民学校令」が公布され、小学校は国民学校と名を変えました。学校生活の目的は、天皇と国家に忠実に従う国民をつくりあげる事におかれ、小学生は「少国民」と呼ばれました。また、中等教育の生徒を軍需工場での働き手にする勤労動員はやがて通年となり、1943年秋からは「学徒出陣」も行われるようになりました。
1944年8月から、国民学校初等科の子どもを郊外へ集団移住させる「学童疎開」が始まり、静岡・清水にも東京の子どもたちがやってきました。
「学童疎開――空襲の激化にともない、政府は都市部の学童(児童)を農村部へうつすことを決定。これを学童疎開という。親戚や知人をたよる縁故疎開と、学校でまとまって疎開する集団疎開があった。集団疎開の対象となったのは国民学校3~6年生で、約46万人といわれる。受け入れ先は公民館や寺院、旅館などで、そこで授業をしたり、近くの国民学校の教室を借りたりした。食糧は米や野菜などの配給量は確保できたが、それでは足りず、寮母や教師たちの苦労はたえなかった。
(参考:『戦争とくらしの事典』)