第54回空襲・戦災を記録する会静岡大会「空襲を描く」8月23,24,25日に開催

今年初めて、「空襲・戦災を記録する会全国大会」が静岡を会場に開催されることになりました。

「静岡平和資料館をつくる会」からの報告もあります。どうぞ、ご参加ください

 

第54回空襲・戦災を記録する会静岡大会「空襲を描く」

― 世代をこえて描かれる戦争 ―

◆日程概要

8 月 23 日(金)18:00 ~ 21:00(予定) 空襲資料研究会
8 月 24 日(土)09:00 ~ 11:30(予定) 空襲資料研究会

8 月 24 日(土)13:00 ~ 17:30(予定)

13:00 記録する会代表あいさつ
静岡大会実行委員長あいさつ(阿部聖さん)
13:10 ~ 14:40 静岡からの報告
1:静岡平和資料館をつくる会 代表あいさつ(鍋倉伸子さん)
2:会の歩み (田中文雄さん・静岡平和資料センター センター長)
3:静岡県内への空襲の実態 (奥脇卓也さん・静岡平和資料センター 調査研究部)
4:資料の水難レスキュー活動報告 (田中文雄さん・静岡平和資料センター センター長 NPO 文化財を守る会)
5:会と体験画 (田中文雄さん・静岡平和資料センター センター長)
14:40 ~ 14:50 休憩(書籍販売)
講演・シンポジウム 「 空襲を描く― 世代をこえて描かれる戦争 ― 」
講演
14:50 ~ 15:25 おざわゆきさん(漫画家)「空襲を描いた漫画家の話を聞いてみよう」
シンポジウム
15:25 ~ 15:45 佐藤陽子さん(仙台・空襲研究会)「仙台空襲体験の聞き描き」
15:45 ~ 15:50 休憩
15:50 ~ 16:25 井上裕之さん(文教大学・元 NHK)「『戦争体験画』の視点から
16:25 ~ 17:30 質疑応答

8 月 24 日(土)19:00 ~ 21:00      懇親会(※要申し込み)静岡駅近隣を予定
8 月 25 日(日)9:00 ~ 12:30(予定)  各地の活動・自由報告

 

◆対面方式会場(現地参加は申込先着 80 名様まで)
静岡県男女共同参画センター「あざれあ」 https://www.azarea-navi.jp/
〒 422-8063 静岡市駿河区馬渕 1 丁目 17-1 TEL:054-255-8440
【アクセス】
・対面参加:徒歩または公共交通機関のご利用をお願いします。
※静岡駅から徒歩 10 分

◆オンライン方式参加:Zoom 使用(参加申込者には後日 URL を送付します)

 

◆1)対面方式で参加費支払いについて
今年、静岡会場で参加される方は、参加申込後、下記の表①〜③の合計額をお振込みください。
振込期間 2024 年 7 月 1 日(月)~ 8 月 20 日(火)
なお、Zoom 参加のかたは Peatix 申込での決済となります。

① 参加費 2,000 円  8 月 23 日(金)~ 25 日(日) 1日のみの参加も3日間の参加も同額です
② 懇親会 5,000 円  8 月 24 日(土)会場は後日お知らせします(静岡駅近隣を予定)
③ 寄付 1,000 円 /1 口 お気持ちに合わせた口数でご寄付をお願いいたします。
<振込先> ゆうちょ銀行
ゆうちょ銀行から 通常貯蓄口座 記号 18120 番号 43450351 佐藤 陽子
他行から 店名 八一八 店番 818 口座番号 4345035 佐藤 陽子

申込内容・振込み確認後にメールで①②③の領収書をお送りいたします。
佐藤 陽子 / E-mail:s.torihito.t@gmail.com

◆2)Zoom 参加の支払いについて
Peatix(クレジット)での支払いとなります。

お申込みはこちらから↓

第54回静岡大会開催要項_

静岡大会ポスター

 

書面によるお申込みをしたい方は、お問い合わせください

メール shizuoka-heiwa@nifty.com

または fax 054-271-9004(担当・佐野)

 

空襲・戦災を記録する全国連絡会議 ↓こちらからも概要をご覧いただけます

https://kushusensai.net/

 

平和教室まだまだ募集中

 梅雨が明け、本格的な暑さが来ています。子どもさんたちは夏休みに入り、楽しい予定を計画されていることでしょう。センターでは今年も平和教室を予定しています。講座によっては定員に近いところもありますが、まだまだ申し込みが出来ます。ご家族で、またはお知り合いの方を誘って皆様でぜひおいでください。一緒に平和の大切さを考えてみませんか。

① 8月 2日(金) 14:00~15:00 展示解説と映像「静岡の空襲」

② 8月 3日(土) 13:30~15:00 戦争中の子どもの体験を聞く会①
静岡空襲のことを中心に戦争中の生活のあれこれを聞く(話したいことのある方も是非参加ください)

③ 8月 4日(日) 14:00~15:00 駅南にあったナゾの線路
今も地図上に残る線路の形跡から、静岡と戦争の関係を探ってみよう!

④ 8月 9日(金) 14:00~15:30 アニメで学ぶ満蒙開拓と少年達
アニメ「蒼い記憶」(1993年公開)を通して、時代に翻弄された少年たち・大人たちがどのように戦争に関わったのかを学びます

⑤ 8月10日(土) 13:30~15:00 戦争中の子どもの体験を聞く会②
清水空襲のことを中心に戦争中の生活のあれこれを聞く(話したいことのある方も是非参加ください)

⑥ 8月11日(日) 14:00~15:00 『昨日生まれたブタの子が』
戦争中の子どもの替え歌を紹介し、当時の暮らしぶりを体験者が語ります

■■ お申込み方法 ■■

*メール・FAX・電話で受付けます。以下の1・2をお伝えください。

1・参加したいイベント番号(2つまで申込み可)

2・参加者全員の氏名・住所・電話番号(児童・生徒は学校名と学年をお知らせください)

*児童・生徒のみでも参加できます

*各イベントの定員は20名です

(受付順、空きがある場合は当日も受付可)

*メールアドレス shizuoka-heiwa@nifty.com

 電話・FAX  054-271-9004

 電話受付は金土日11時~16時でお願いいたします

児童館でのお話会に参加してみませんか

 今年も市内の児童館で、戦争や平和についてのおはなし会が予定されています。「日本でも昔、こんなことがあったんだよ」ということを紙芝居やお話から知ってみませんか。そして、今、世界で起こっていることにも目を向けて、戦争や平和について考える時間にしてみませんか。

 

8月2日(金)14:00ー15:00

「戦争についてきいてみよう」

場所:安東児童館

対象:幼児・小学生・中学生・高校生・保護者

人数:先着15人程度

申込:7月19日(金)~ 各日9:00~17:00

   ※電話での申込は、 各日10:00~17:00可

    電話番号(054-246-7224) 

   ● お友達分・メールでの申込不可

 

 

8月4日(日)14:00ー14:30

「おしか座のかみしばい ~平和のおはなし~」

場所:長田児童館

対象:どなたでも

人数:制限はありません。お一人でも、ご家族みなさんでも。

申込:事前申し込みはありません。当日おいでください。

 

 

8月6日(火)13:00-14:00

「藁科おはなし広場 ~戦争のおはなし~」

場所:服織児童館

人数:小学生以上15人

申込:電話で7月16日(火)14:00から 藁科生涯学習センターへ申し込み

   電話番号(054-278-4141)

 

2 読んでみよう

読んでみよう

 
 


 

テレジン収容所の小さな画家たち詩人たち
テレジン収容所(しゅうようじょ)の小さな画家(がか)たち詩人(しじん)たち
アウシュビッツに()えた15000(にん)(ちい)さな(いのち)

野村(のむら) 路子(みちこ) (ちょ)株式会社(かぶしき がいしゃ)ルック/1997年)

 ☆チェコスロヴァキア(当時(とうじ))の首都(しゅと)プラハから(きた)へ60キロほど、テレジンという小さな(まち)収容所(しゅうようじょ)がつくられました。ヨーロッパに()んでいたユダヤ(じん)たちがそこに(あつ)められたあとに(ころ)されたのです。(おお)くはまだ(おさな)い子どもたちで、全部(ぜんぶ)で150万人(まんにん)とも()われています。「今日(きょう)はとってもつらいけど、明日(あした)戦争(せんそう)()わるかもしれない。」と(おも)いながら()()くことがなぐさめ、希望(きぼう)でした。その子たちが()きた(あかし)がこの(ほん)にのっている()です。

 

たくさんのふしぎ
たくさんのふしぎ
一郎(いちろう)くんの写真(しゃしん) 日章旗(にっしょうき)()ち主(ぬし)をさがして

木原(きはら)育子(いくこ) (ぶん)沢野(さわの)ひとし()福音館(ふくいんかん)書店(しょてん)/2019(ねん)

 ☆19000キロメートルを(たび)して(かえ)ってきた「一郎(いちろう)くん」の(はた)写真(しゃしん)のおはなしです。「一郎(いちろう)くん」は静岡(しずおか)(ひと)だったよ。()がかわいくて()みやすいよ。でもね、戦争(せんそう)っていやだなってことがよくわかる。戦争(せんそう)に行()った「一郎(いちろう)くん」はどんなふうに()くなったんだろう?(いた)かっただろうね。(かな)しかっただろうね。つらかっただろうね。(いえ)(かえ)って家族(かぞく)(はな)したりごはんを()べたりしたかっただろうね。みんなみんな、だれかの大事(だいじ)(ひと)(いのち)(かぞ)えるものじゃないんだ。

 

戦争(せんそう)なんか大(だい)きらい!
戦争(せんそう)なんか(だい)きらい!
絵描(えか)きたちのメッセージ

()どもの(ほん)九条(きゅうじょう)(かい) (ちょ)  大月(おおつき)書店(しょてん)  2018(ねん)

 ☆かこさとしさん、宮西(みやにし)達也(たつや)さんなど61(にん)画家(がか)平和(へいわ)への(おも)いをこめて()()きました。それらの素敵(すてき)()、ユニークな()が、日本(にほん)(こく)憲法(けんぽう)(ぶん)()えられています。()まれて74(ねん)になる「日本(にほん)(こく)憲法(けんぽう)」の条文(じょうぶん)()をじっくりと(あじ)わってみてください。日本(にほん)(こく)憲法(けんぽう)(わたし)たち日本(にほん)(たから)であるだけでなく、世界(せかい)(たから)でもあると(あらた)めて(かん)じるのでは。

 

くつがいく
くつがいく

和歌山(わかやま)静子(しずこ) (ちょ)  童心社(どうしんしゃ)  2013(ねん)

 ☆〈ざっざっざっ…〉そのうち〈ざっぷざっぷざっぷ〉と,くつはうみをわたる。はいていたのは(ぼく)たち日本(にほん)兵隊(へいたい)(ちか)くの(くに)をふみつぶして(みなみ)(とう)へ。やがてくつも(くに)もボロボロになり、兵隊(へいたい)さんもくつたちも二度(にど)(くに)(かえ)ることはなかった。
 (おんな)の子の(あか)いくつはどこにいくかな。戦争(せんそう)には、きっと()かない!

 

へいわってどんなこと?
へいわってどんなこと?

浜田(はまだ)桂子(けいこ) (さく)   童心社(どうしんしゃ)  2011(ねん)

 ☆「へいわ(平和)」ってどんなことだとあなたは(おも)いますか?いくつ(かんが)えられましたか?1つじゃなくていいんですよ。この(ほん)(なか)にも「へいわってこんなことなんだ」が、たくさんのっています。()んだらきっと、「うんうん、そうだね。」「ああ、これもへいわってことなんだ!」とうなずけることでしょう。

 

みらいへの教科書
みらいへの教科書(きょうかしょ)

菊田文夫(きくたふみお) (ちょ)  日野原(ひのはら)重明(しげあき) 監修(かんしゅう)  Gakken(がっけん)  2015(ねん)

 ☆ここには「きみ」自身(じしん)、「(とも)だち」と、そして「よのなか」で()きていくのにどんなことを大切(たいせつ)にしてほしいかが、小学生(しょうがくせい)(おもに高学年(こうがくねん))にもわかるように()かれています。でも、(じつ)中学生(ちゅうがくせい)高校生(こうこうせい)にこそ()んでほしい!いや、お(とう)さんお(かあ)さんにも!きっと(こころ)にすっと()ちていくものがあるはず。(いま)()(なか)一生(いっしょう)けんめい(かんが)え、(なや)んでいるみなさんに、(しあわ)せに未来(みらい)()()いていくヒントがつめこまれています。

 
 


核の脅威から 核廃絶へ

※写真をクリックすると拡大表示されます。

 アメリカ、ソ連の核軍拡競争にイギリス・フランス・中国・インド・パキスタン・イスラエルが続き、さらに北朝鮮など、新たに核兵器保有をめざす国は後を絶ちません。また、核兵器開発では2060回もの核実験が行われてきました。今日の世界には核兵器が15000発もあり、そのうち数百発は数分のうちに発射できる体制にあります。だからこそ核兵器廃絶へ一歩でも進もうと、2017年7月、「核兵器禁止条約」が国連で122カ国により採択されました。

2017年 ノーベル平和賞受賞式に臨む
ICANのベアトリス・フィン事務局長とヒバクシャのサーロー節子さん

 国際NGOの「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)はこれを実現するために、各国に様々な働きかけをしてきました。2017年のノーベル平和賞はその功績を認めたものです。受賞の背景には、被爆者たちの貢献がありました。体験を世界で語り、悲惨さを訴えたことで核廃絶への共感を呼び起こしたのです。今の課題は、核武装した9カ国がこの条約に反対していることです。「アメリカの核抑止力に依存する」日本政府も反対の立場です。核保有国同士の不信からいまだ条約の発効に至らない中、2019年11月24日、ローマ教皇フランシスコが長崎、広島の被爆地を訪れ、世界に「核廃絶」を訴えました。教皇は軍拡競争を「途方もないテロ行為」と強い表現で指摘し、核兵器を含む大量破壊兵器の保有そのものを厳しく非難。

 「核兵器のない世界は可能で必要だ」と訴え、各国の指導者に核廃絶に取り組むよう促しました。教皇が発した力強いメッセージは被爆者をはじめ平和を願う世界の人々に大きな勇気を与えました。
 2021年1月22日に50カ国・地域で発効した「核兵器禁止条約」は核兵器の開発から使用までを全面的に禁止する史上初の国際規範です。しかし唯一の戦争被爆国である日本は条約に批准していません。本来なら核廃絶に向け、リーダーシップをとる立場です。条約に批准し、被爆国としての知見を世界に発信するよう、日本政府を動かすのは私たち一人ひとりです。(参考:「学ぼうヒロシマ中学生新聞」、『核兵器はなくせる』、毎日新聞、東京新聞、朝日新聞)

[イラスト:木村陽子さん]

2016年 広島を訪れたオバマ元大統領

 

2019年広島・長崎を訪れたローマ教皇フランシスコ

 


変化する空爆

登場した新型通常兵器

 

●ナパーム弾

 1950年に始まる朝鮮戦争では、国連軍の名のもとに大量のナパーム弾が投下されました。日本の空爆に使われた焼夷弾もナパーム弾の一種ですが、さらに威力を高めたものでした。
 当時米軍占領下だった日本は横田(東京)、嘉手納(沖縄)をはじめ、複数の米軍キャンプが米空軍の出撃基地となったのです。

 

●枯葉剤とクラスター爆弾

 これ以降の戦争では、核兵器の使用可能性が憂慮される一方で、「通常兵器」の性能強化がはかられていきます。1965年からのベトナム戦争では大量の枯葉剤が米軍によって空から撒かれました。枯葉剤に含まれる猛毒ダイオキシンのために、戦争が終わったあとガンが多発し、障害や奇形をもつ子どもが生まれました。また、クラスター爆弾を大量に使ったことも知られています。クラスター爆弾は数百個の子爆弾を容器に収めた爆弾で、投下されると容器が空中で爆発して子爆弾がばらまかれ、不発弾は地雷化します。そして戦争が終わった後も地中にとどまり、住民を殺傷するのです。

※クラスター爆弾禁止条約が2010年8月発効

 

●バンカーバスター弾・デイジーカッター弾

 バンカーバスター弾は地下30メートルを貫通して爆発します。デイジーカッター弾は、一瞬のうちに500メートル四方を火の海にする燃料気化爆弾です。

 

●劣化ウラン弾

 劣化ウランは、核兵器用や原子力発電用にウランを濃縮する過程で出る、低レベル放射性廃棄物です。比重が大きく、モリブデンやチタニウムと合金すると極めて硬い金属になります。しかも安価です。そのため、湾岸戦争以来、弾芯に劣化ウランを利用した対戦車砲や軍艦の対空機関砲に使われてきました。

 高速で飛んできた劣化ウラン弾は標的に衝突し、貫通するとき摩擦熱で瞬時に燃焼し、酸化ウランの微粒子となって空気中に漂います。微粒子は呼吸や飲食を通じて体内に取り込まれると内部被ばくをひきおこします。湾岸戦争以降、米軍や英軍などの帰還兵の多くに、頭痛・めまい・白血病・腎臓肝臓不全等があらわれ、帰還兵の子どもにも先天性障害や白血病が出ています。イラク、ボスニア、コソボで、特に子どもたちに深刻な健康被害が出ていますが、アメリカ軍もアメリカ政府も、劣化ウラン弾と健康被害の因果関係を否定しています。

 イラクでは湾岸戦争(イラク軍のクウェート侵攻に対し1991年、米軍・多国籍軍がイラクを攻撃)以後、急激に増え続ける子どもたちの白血病やガンに対応するため、1993年バクダッドの二つの小児病棟に白血病専門病棟が設けられました。しかし経済制裁の影響で医薬品は不足、十分な治療は受けられません。サファアは森住卓さんが取材で訪れた病院で出会った少女でした。

サファアの笑顔

森住卓さん撮影(1998年4月末マンスール小児病院にて) ©森住卓

 ――その直後、病院の横を流れるチグリス川からそよ風が吹いてきて、サファアのショールを剥ぎ取ってしまった。彼女の頭にはうっすらと産毛のようなものが生えていた。アラブの女性の誇りである黒髪はなかった。私がサファアに会ったのは、白血病専門病棟の玄関だったのだ。隣にいたお母さんが、「この子は治ったから帰るのではないのよ。薬がなくなってしまったので仕方なく退院するの」と不安そうに言った。でも、彼女は無邪気にも、自宅に帰れる喜びでいっぱいの笑顔をレンズに向けてくれたのだった。(『イラクからの報告』より)

 

1990年以降の空爆

●ピンポイント攻撃

 ――1990年代、湾岸戦争やユーゴ空爆では無辜の地域住民を殺傷する空からの攻撃への非難をかわすため、アメリカなどは「精密誘導兵器によるピンポイント爆撃」を強調しました。湾岸戦争では、イラク軍の軍事施設を精密誘導ミサイルで破壊する場面がテレビで繰り返し放映され、メディア操作も行われました。しかし実際には、多くの民間人が巻き添えになったのです。ピンポイントの精度の問題の他に、爆撃目標の選定情報に間違いもあります。住民にとっては、実質的に無差別爆撃と変わりません。

 

●NATO軍の「死傷者ゼロ」ドクトリン

 ――戦争参加に反発する国内世論をなだめるため、米欧各国は自軍の損害を最小限にしようと努めました。1999年のユーゴ空爆でNATO軍の出撃は2万回におよびましたが、撃墜されたのは2機のみ。パイロットの死者はありませんでした。 
アメリカはこの戦争で初めて「見えない飛行機」ステルス機(超重爆撃機B2)を出動させました。

 

 空からの一方的な攻撃は、戦争による死傷者の数も非対称にしました。9.11後のイラク攻撃から2008年3月までの民間人の死者は、約8万9000人から16万人と推定されています。米兵の死者3975人とくらべ、犠牲の差は歴然としています。そして殺される者には相手が見えません。殺す者は相手の痛みへの感受性が欠落します。無人機攻撃では一本の指で「兵士なき戦場」をつくりだします。

 これまで人類は多くの残虐な兵器を生み出し、犠牲者を出してきました。一方で、そうした兵器を法的に禁止し、廃絶するための努力も続けてきました。生物化学兵器禁止条約、対人地雷禁止条約、クラスター爆弾禁止条約等々—。しかし空爆距離・領域の拡大によって、今や宇宙空間さえも兵器化されようとしています。これを止めなければ人類の未来はありません。


核開発競争とビキニ水爆実験 ― 「第五福竜丸」と延べ992隻の被災船

※写真をクリックすると拡大表示されます。

 核兵器製造能力を持った国が軍事的に優位に立つことが明らかになると、核軍拡競争が起こり、ソ連やアメリカはさらに威力の大きい水爆開発にのりだしました。そしてアメリカは1954年大規模な水爆実験を実施します。

 


第五福竜丸 (山田育代さん撮影)

<ビキニ水爆実験と「第五福竜丸」>

 アメリカは1954年3月~5月、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁を中心に、水爆実験を6回実施しました。
 3月1日、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」は、初回の核爆発実験「ブラボー」に遭遇。「ブラボー」の破壊力は広島原爆の約1000倍といわれています。乗組員23人は、核爆発によって生じた放射性物質を含むチリなど、いわゆる「死の灰」を浴びて被爆しました。3月14日、焼津に帰港するとその日のうちに診察を受け、数日後に急性放射能症と病名が発表されます。3月16日、読売新聞が「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」と衝撃的な見出しで報道すると、日本だけではなく、世界の耳目が焼津の街に集まるようになりました。


ちらし(青島義雄さん寄贈)
静岡県発行

 放射能に汚染されたマグロやサメは、すべて廃棄処分になり、「放射能マグロ」「原子マグロ」と恐れられ、ほかの魚も売れなくなってしまいました。第五福竜丸の被災と汚染魚の大量廃棄は、国民を恐怖に落とし入れ、全国で水爆実験反対・原水爆禁止署名運動が自発的に取組まれるようになりました。そして9月23日、日本中の人々が回復を願って注視していた無線長の久保山愛吉さんが亡くなると、原水爆禁止運動は大きなうねりとなって世界に広がっていったのです。
 ビキニ環礁の「死の灰」は、核実験地とされた太平洋の島民にも降り注ぎました。ロンゲラップ島の人々は実験50時間後に「救出」されたものの、今も故郷を奪われ、放射能の不安の中で生きています。


「太平洋核被災支援センター」山下正寿さん提供

東京都立第五福竜丸展示館 提供

 

(参考:毎日新聞、東京新聞、『第五福竜丸は航海中』 『ビキニの海は忘れない』 他)

<第五福竜丸以外に延べ992隻が被災>
 ビキニ水爆実験では「第五福竜丸」以外に多くの被災船が存在したことはあまり知られていません。しかし、水産庁では延べ992隻(実数550隻)の被災船を把握していました。被災船の約3分の1は高知船籍でした。
 一方、翌年の1955年、日米両政府は、見舞金200万ドルで政治決着させます。以降、マグロの検査は中止され、第五福竜丸以外の船員の被災記録は公開されず、健康状況が追跡調査されることはありませんでした。
 しかし、1985年、当時高校教諭と高知の高校生らでつくる「幡多高校生ゼミナール」が、400人に上る元船員や遺族などから聞き取りを続け、被災船の多くの乗組員が脳腫瘍や白血病、がん等で亡くなっている事実を明らかにしました。さらにそれを裏付ける被災記録を市民団体「太平洋核被災支援センター」が米国国務省から入手。2014年に、船員の放射能汚染や漁船の航路記録が確認できたのです。
 こうした取り組みを受けて2016年、高知県の被災船員らは国に対し賠償責任を求めて提訴します。元船員らを支援する「太平洋核被災支援センター」は30年以上にわたり、調査・救済活動を続けてきました。かつて証言をしてくれた多くの元船員は既に亡くなっています。
 2019年の高松高裁判決は「国が意図的に隠し続けてきた証拠はない」などとして訴えを退けました。しかし、判決は「漁船員が操業中に被爆したこと」「原告の要求はヒロシマ・ナガサキのヒバクシャと共通する」などと、第五福竜丸以外の船員の被爆を認め、さらに救済の道を示唆した歴史的な内容でした。一方、船員保険法の適用を求めて提出した労災が「不承認」にされるなど、闘いはまだ続きます。
(参考:『ビキニの海は忘れない』、ビキニ被災支援ニュース)


戦後の暮らし―敗戦と占領政策

※写真をクリックすると拡大表示されます。

 1945年(昭和20)8月14日、日本政府はポツダム宣言受諾を連合国に通告し、無条件降伏します。翌15日に天皇はラジオ放送で戦争終結を国民に伝えました。敗戦後、日本は7年間にわたりアメリカ主力の連合国軍の占領下に置かれます。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府を通じて支配する間接統治でした。静岡市には1945年11月占領軍約1400人が進駐しました。1950年ごろには高松のマッケンジー邸に、治安状況のスパイ活動を任務とする「対敵諜報部隊」(CIC)が駐屯しました。

 静岡県庁前で記念撮影する占領軍と小林知事(前列右から2人目)
(1949年山崎鋭一さん撮影)

 

続く食糧難

闇市風景(写真提供 七間町名店街)

 敗戦後、人々が直面したのは深刻な食糧難とインフレによる生活難でした。米は遅配、欠配が続き、雑炊暮らしが多くなりました。1945年9月26日の静岡新聞では「静岡市内の国民学校でお弁当の盗難や中み盗み食いが頻発」と報じています。そのなかで、1947年1月から静岡・浜松・沼津・清水・熱海・三島・富士宮の7市で学校給食が始まりました。連合軍総司令部・ララ委員会・ユニセフ等による物資の援助を受け、実施されたものです。当初は魚の缶詰だったのが、ミルク、みそ汁給食になり、小学校で完全給食が実施されるようになったのは1951年でした。

(参考:『激動の昭和史 静岡県下巻』)

 戦争末期から続く悲惨な栄養状態は子どもたちの発育に大きな影響を与えました。ちなみに14歳男子の平均身長(平均体重)を比べてみると、1939年度152.1センチ(43.6キロ)が、1948年度は146.0センチ(38.9キロ)と、身長は6.1センチ低く、体重は4.7キロも減少しているのがわかります。1939年度の水準まで回復したのは1956年でした。

(参考:「学校保健統計調査報告書」)

 

日本の民主化と憲法

 GHQの当初の占領目的は、日本の非軍事化と民主化でした。
 一方で1945年9月から1952年サンフランシスコ講和条約で直接占領が終わるまでプレスコード(新聞編集基準)をしき、言論を厳しく統制しました。
 1945年10月、GHQは日本政府に憲法改正および女性の解放などの五大改革を指示し、これに基づいて政府はさまざまな改革を実施していきました。主権在民・平和主義・基本的人権の尊重を三原則とする新憲法(1947年5月3日施行)は、日本の非軍事化・民主化を象徴するものです。

『初等科国語 四』(戦後使用)

写真「新憲法を祝う静岡市役所の風景」

『あたらしい憲法のはなし』

 『あたらしい憲法のはなし』は、日本国憲法が公布された翌年1947年 (昭和22)8月2日に、文部省が発行した中学1年生用の社会科の教科書である。学校だけではなく、広く社会教育でも活用された。日本国憲法の精神や内容を易しく解説している。
 この中で、「戦争の放棄」について、「放棄」とは「すててしまう」ことだと明記して、次のように述べている。「みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。」
 民主主義と国際平和主義が、人類が生きていく上で唯一の道だと語る当時の文部省の熱気が伝わってくる。かつて戦争の傷跡が色濃く残る中、人々が万感の思いで迎え入れた日本国憲法。その精神を『あたらしい憲法のはなし』は、私たちに思い起こさせてくれる。
参考:山住正巳『日本教育小史』

 
 

商店街の復興

 

静岡市

 たび重なる空襲によって、静岡市の人口は1945年3月の21万5千人から敗戦時16万5千人に激減していました。市は9月20日、復興土地区画整理事業を決定し、10月25日には乏しい資材を使い、戦災者の住宅を建て始めました。市の復興計画は1964年度まで続き、都市公園の整備など市民の憩いの場も増えていきます。また中心市街地呉服町は1953年11月アーケード街となり、1958年には耐火名店街ビルが完成、七間町の映画館街と共に市民の「お街」は復興しました。

(参考:1969年発行『静岡市史近代』)

 

清水市

 1947年4月5日、清水市でも初の市長公選が行われ、清水港はこの年から5ヵ年計画で改修が実施されました。さらに市を中心に清水漁港の改良、清水港の改修促進と第一種重要港湾に編入するよう運輸省に陳情しました。同年、市は清水商工会議所と連名で「みなと祭り」の開催を呼びかけ、8月3・4日、神輿、山車、マラソン大会、芸能大会、仕掛け花火を実施。多くの市民に元気を与えました。
 1952年2月、清水港は特定重要港湾の指定を受け、外国貿易の上でも日本の代表的港湾として認められます。市街地では1956年度から10ヵ年計画で、清水銀座の燃えない街づくりが始まりました。

(参考:1986年発行『清水市史第3巻』)

セントラル劇場
(写真提供 七間町名店街)

 

 


戦時下の暮らし

※写真をクリックすると拡大表示されます。

「銃後の守りから総動員体制へ」

 

  • 1929年(昭和4)、恐慌が世界に波及するようになると、日本では「万世一系の天皇をいただく特別な国」としての自国を誇るナショナリズムが広がっていきました。満州事変勃発以降、それは顕著になります。
  • 1931年、満州事変から15年にわたる戦争の時代、戦地で戦ったのは日本軍兵士でしたが、それを銃後で支えたのは国民です。戦果を伝える報道に沸き立つ一方、家族や身近な人が召集され、物資も乏しくなっていきました。やがて死と隣り合わせの空襲が日常に—。
    当時の人々が生きた時代はどのようなものだったのでしょう。
  • 1937年、日中戦争が起こると近衛文麿内閣は「挙国一致」を呼びかけます。
  • 1938年「国家総動員法」が成立。軍事力・経済力・人的能力のすべてを投入する総力戦の体制となります。
  • 1940年、大政翼賛会が結成されると、10戸を単位とした隣組が組織され、伝達・配給・防空・監視・防諜などの役割が課せられるようなりました。
    1941年12月、米・英との開戦を機に、大政翼賛会は活動の幅を広げ、総動員体制はさらに強圧的なものになっていきます。

郵便局作製ポスター

 

写真「報国農場」

 

安西町「隣組会誌」

戸口票(軍用うさぎ)

学徒勤労動員腕章

 
 

「統制と耐乏の時代」

 戦争が長引くと、日常生活の様々な分野で経済統制が行われ、軍需が優先されるようになります。「贅沢は敵だ」という標語が街にあふれ、戦費調達のための国債買い取りや貯蓄が奨励されました。1938年、綿糸・重油などが切符制に、米・砂糖・卵・醤油・塩や石鹸・煙草・野菜などが配給制になり、1943年末から、ほとんどの生活物資が配給統制になりました。配給通帳・切符なしに物品を購入することができなくなったのです。
 戦争末期の1944年~1945年は米の代用品として小麦粉・大豆・いも・雑穀類なども登場するようになります。空腹をかかえ、勤労動員や農作業、食糧の調達に追われ、そのうえ空襲警報による寝不足も加わり、皆疲れていました。

大東亜戦争特別国庫債券

 

家庭用物資購入帳

製麺機

 「配給通帳制」――国から支給された手帳を持参すれば、配給所で安価に購入することができるという制度。米を例にとると、配給量は当初、大人一人当たり1日約330グラムだったが、1945年は大凶作が重なり、配給量が1割減、質もかなり低下した。
 「切符制」――一人ずつ点数つきの切符が与えられ、交換所にて、その点数以内で買うことができるという制度。配給通帳と同様、切符は「買う権利」を示したもので、代金が必要。戦争末期には切符があっても現物がないということが頻繁に起こった。
(参考:『戦争とくらしの事典』)

 
 

「戦時の教育」

 

 学校には1920年代後半から、天皇・皇后の写真(「御真影」)や教育勅語を置くための「奉安殿」が設置されるようになり、子どもたちは登下校の際に脱帽して最敬礼するよう、しつけられました。
 1941年3月、「国民学校令」が公布され、小学校は国民学校と名を変えました。学校生活の目的は、天皇と国家に忠実に従う国民をつくりあげる事におかれ、小学生は「少国民」と呼ばれました。また、中等教育の生徒を軍需工場での働き手にする勤労動員はやがて通年となり、1943年秋からは「学徒出陣」も行われるようになりました。
 1944年8月から、国民学校初等科の子どもを郊外へ集団移住させる「学童疎開」が始まり、静岡・清水にも東京の子どもたちがやってきました。

 

学校教練必携 前篇

写真「西豊田国民学校での学童疎開の子どもたちの朝会」

 「学童疎開――空襲の激化にともない、政府は都市部の学童(児童)を農村部へうつすことを決定。これを学童疎開という。親戚や知人をたよる縁故疎開と、学校でまとまって疎開する集団疎開があった。集団疎開の対象となったのは国民学校3~6年生で、約46万人といわれる。受け入れ先は公民館や寺院、旅館などで、そこで授業をしたり、近くの国民学校の教室を借りたりした。食糧は米や野菜などの配給量は確保できたが、それでは足りず、寮母や教師たちの苦労はたえなかった。
(参考:『戦争とくらしの事典』)

 
 

ポスター(複製)「海軍志願兵募集」

「肉弾三勇士」の模様がついた鉛筆削り

日の丸鉢巻 神風


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