【証言6】有度山で陸軍歩兵第410連隊を率いた - 連隊長 松井利生 大佐 –

【証言⑥】

有度山で陸軍歩兵第410連隊を率いた

連隊長 松井利生(まつい としなり) 大佐について

※写真をクリックすると拡大表示されます。

 松井利生は1899(明治32)年東京に生まれた。1920(大正9)年に陸軍士官学校を卒業し、浜松、遼陽(満州)、台湾に駐屯する。満州事変以降は(満州)各地と華北を転戦した。太平洋戦争開戦時にはビルマ(ミャンマー)侵攻作戦の最前線で大隊長を務めた。本土決戦体制下の1945(昭和20)年4月に歩兵第410連隊長となり有度山などで部隊の指揮を執る。敗戦後も静岡に留まり、1987年に生涯を閉じた。

 私生活では早くに妻を亡くし、一人娘を親類に預けて各地を転戦していた。女学校を卒業した娘は第410連隊本部に就職し、漸く父と暮らすことができた。

 戦後数十年後、第410連隊について何も知らない孫娘と瀬名の山を眺めながら、「山は変わらないな。ここに昔ちょっと居たことがあった」と語ったという。瀬名は連隊の第3大隊が陣地構築を行っていた場所である。

⑧少佐のころ
⑧少佐のころ


年月日 松井利生さんの年譜 写真
1899.1.26 東京に生まれる
1912 仙台地方陸軍幼年学校入学
1915 同校卒業、陸軍士官学校入学  
1920.5 同校卒業(陸士32期)、見習士官に
1920.12.25 陸軍歩兵少尉任官、(浜松)歩兵第67連隊附に  
1921.4.1 大阪港から満州の入口・大連を経て奉天省遼陽着
1923.4.27 名古屋港上陸  
1923.12.15 陸軍歩兵中尉に  
1925.5.1 (豊橋)歩兵第18連隊附に  
1925.12.2 台湾歩兵第1連隊附に  
1925.12.21 神戸港から台湾・基隆に向かう  
1926.9 台北にて結婚
1928.2.26 台北にて長女誕生  
1930.8.1 陸軍歩兵大尉、台湾歩兵第1連隊大隊副官に
1931.8.1 台湾歩兵第1連隊中隊長に  
1931.9.18 満州事変  
1932.8.8 (新発田)歩兵第16連隊附に  
1932.8.21 台湾・基隆から、門司・下関、朝鮮・釜山を経て、満州・遼陽着
1933.1.10 宇品港上陸  
1933.2.20 妻死去  
1933.11.1 独立守備歩兵第1大隊長に  
1933.11.10 下関港から釜山を経て吉林省公主嶺着  
1933.12.1 独立守備歩兵第3大隊長に  
1934.4.1 北安省綏化着  
1935.3.15 第3独立守備隊副官に  
1935.3.21 龍江省龍江県昴々渓着  
1937.7.7 日中戦争  
1937 新京にて再婚  
1937.8.2 陸軍歩兵少佐に。独立守備歩兵第1大隊附
1937.8.15 内蒙古の多倫警備司令部附となり部隊へ  
1937.10.22 新京にて独立守備歩兵第1大隊附  
1938.2.24 妻と長男死去  
1938.12.7 (弘前)留守第8師団通信隊長として門司港上陸  
1939.3.25 (弘前)第36師団通信隊長に  
1939.4.25 神戸港から塘沽港上陸  
1940.9.15 陸軍少佐に  
1941.3.18 (徳島)歩兵第143連隊大隊長として門司港上陸  
1941.8.1 陸軍中佐に  
1941.11.20 詫間港出帆  
1941.12.8 タイ南部に上陸  
1941.12.8 太平洋戦争  
1941.12.15 ビルマ(ミャンマー)・ビクトリアポイント着  
1942.6.4 モールメン、ペグー、ピンマナ、アマラプラを経て、バーモ着  
1942.9.22 ラングーン着  
1942.9.25 シンガポール着  
1942.11.10 南方軍下士官候補者隊歩兵隊長としてマレーシア・ポートディクソン着。教官に。  
1944.8.11 西部軍兵務部部員として福岡着  
1945.4.1 (清水)歩兵第410連隊長に  
1945.6.10 陸軍大佐に  
1945.9.10 歩兵第410連隊解散  
1945.9.15 歩兵連隊軍旗焼却  
1945.9.21 名古屋師管区歩兵第2補充隊附  
1945.10.1 静岡連隊区司令部附  
1945.10.21 蒲原に復員  
1945.12.1 予備役編入  
静岡地方世話部事務官、遺族会授産事業、養鶏業等に就く
1987.3.23 蒲原にて死去  

 

[写真と資料 2019年9月9日 孫・杉谷敦子さん提供]


①誕生(左図)、
②陸軍幼年学校入学(右図)

③(浜松)歩兵第67連隊見習士官(左端)

④奉天省遼陽着(左から 3 人目)

⑤台湾神社にて挙式

⑥台湾歩兵第1連隊野営演習
(右は実弟)

⑦1932.9.14 (新発田)歩兵第16連隊本部ラハ撤収時(後列右から2人目)

 
 

松井利生さんの移動 (直線で表示)

 

1920年5月~1941年3月

A 東京
B 浜松
C 大阪
D 大連
E 遼陽
F 名古屋
G 千葉
H 豊橋
I 神戸
J 基隆
K 宜蘭
L 門司・下関
M 釜山
N 拉哈(ラハ)
O 宇品
P 新発田
Q 公主嶺
R 綏化
S 昂々渓
T 新京(長春)
U 山海関
V 多倫(ドロン)
W 安東(丹東)
X 弘前
Y 塘沽

 

1941年3月~1945年8月

A 徳島
B 詫間
C チュムポン
D ビクトリアポイント
E モールメン
(モーラミャイン)
F ペグー(バゴー)
G ピンマナ
H アマラプラ
I バーモ(バモー)
J ラングーン(ヤンゴン)
K シンガポール
L ポートディクソン
M 福岡
N 清水


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【証言5】「平沢観音」付近で壕掘りを手伝う - 斉藤サツキさん –

【証言⑤】有度山周辺

「平沢観音」付近で壕掘りを手伝う

斉藤(旧姓神谷(かみや))サツキ(さいとう さつき)さんの証言(当時14歳)

1930(昭和5)年生まれ

斉藤さん
インタビューを受ける斉藤さん

 当時、静岡市東大谷に住んでいた。小学校高学年の時に日米が開戦し、その数年後、秋晴れの空にB29を初めて見る。それを境に空襲警報が度々発令され、共同防空壕などに逃げ込んだ。近くの浜にも焼夷弾や照明弾が落ちて、大きな穴ができたのを見た。また姉の嫁ぎ先では家族が行方不明になり、ついに戻って来なかったようだ。静岡空襲後には兄嫁と共に街で死体を目にしたり、安倍川で荼毘に付す様子も見た。
 通った大谷国民学校の一部が軍の駐屯地だった。学校に隣接して陸軍の射撃場があり、営倉(兵士を罰する建物)もあった。そこで殺されたと思われる兵隊の白骨死体を目撃し、近くを通るのが恐ろしかった。
 夜には、父のところにどぶろくを持った朝鮮の同僚たちがよく遊びに来た。兄嫁は「言葉が何にも分からない」とグチっていたが、自分は来客を喜んだ。

 昭和20年初夏、町内に平沢の本土決戦壕の掘削作業を手伝うようにと要請があり、家にその動員割当ての順番が回ってきた。父は国鉄定年後、三菱の軍需工場に勤務しており、兄3人は内・外地に出征していて不在のため、当初は兄嫁が行くことになっていた。しかし育児で手が離せなかったので、家の農作業を手伝っていた自分が代わりに、2週間間隔で3回ほど行くことになった。兵隊に対して「怒られる」「殺される」というイメージを持っていてたいへん怖かったし、男性に混じって作業するのは気恥ずかしくて乗り気ではなかった。
 壕を堀りに行く当日、迎えの者と共に、近所の親しい少し歳上の女性ら2人と朝6時過ぎに家を出て、久能山脇の沢づたいに約1時間半歩いて平沢に向かった。「平沢観音」付近はほとんど田んぼで、そこに兵隊の飯場があり、大きな釜が目に入った。作業は8時ごろから始まり、途中兄嫁が作ってくれたおにぎりで昼食を摂り、5時ごろまで行なわれた。久能からも動員された人たちが来ていた。兵隊がツルハシで掻き出した土を袋に詰め、素手でその袋の縄を引っ張り、崖まで引きずって崖下に土を落とすといった作業だ。重くても不満も何も言えなかった。手伝った壕の長さは約30メートル、穴の大きさは2人がやっとすれ違うことが出来る程度であった。兵隊が穴の内部に支える木枠を通す様子を見ながら、大工関係の商売をしていた人だなと思った。壕の目的は、「この辺りで戦いがあった時に隠れ、兵器をしまうために掘る」と言っていたが、それにしては小さいなと感じた。作業中、近くに爆弾が落ちるのを見て、壕に逃げ込んだこともあり、いつ自分も空襲に遭うかと気が気でなかった。
 一方、町内会長や近所の人たちから「若いのによく来たね」と声を掛けられ、かばってもらい、西脇から来た同じ兵隊を手伝うことになった。兵隊は崖下に落ちるなと注意してくれたり、昼食時、一升どっくりに入った水を勧めてくれたことも記憶にある。

 日本の敗戦がささやかれ始め、負けたら女性や子どもはどうなってしまうかと不安にかられた。終戦の日、ビラが田んぼにたくさん落ちて来るのを見た。玉音放送の後、母が「負けたと言いふらしてはいけない」、兄嫁は「夫が帰るまでは負けを信じない」と言った。しかし10日ほど過ぎると、家族も自分もだんだん敗戦を受け入れるようになり、その間に兄たちが一人また一人と出征地から戻って来た。

〔2020年8月19日〕

 


画 山田勝洋


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【証言4】日本平山頂下で陣地構築に携わった - 横山健治さん –

【証言④】有度山周辺

日本平山頂下で陣地構築に携わった

横山健治(よこやま けんじ)さんの証言(当時16歳 海軍第15突撃隊兵士6月までは海軍飛行予科練習生)

1928年(昭和3)年生まれ

インタビューを受ける横山さん
インタビューを受ける横山さん

 私は千葉県船橋の生まれ。中学3年の時予科練を志願して、最初は昭和19年9月に三重の航空隊に入隊した。清水へ移ってきたのは12月だった(清水に海軍航空隊ができたのは9月)。清水でまた訓練を受けたが、20年6月には予科練が解散になった。予科練には、もう飛ぶ飛行機もなかった。軍歴を後からみて私らは「15突撃隊」というのに配属されていたのだと知ったが、本土決戦の突撃隊として、今度は陣地構築の方へ回された。15突撃隊というのは、予科練第14期・15期・16期が入っていた。私は15期。14期生は特攻の訓練を受けていたが、私らはまだだった。15突撃隊は、船はまだないけれども「震洋(ベニヤ板でできたモーターボート・海軍特攻艇)」で突撃するはずだった。でも、船は最後まで配備されなかったので命拾いした。予科練では震洋の格納庫を作った。ただその時には震洋の格納庫だということも知らされず、作業だけしていた。今も三保半島には震洋の格納庫が残っているが、自分がどの部分を作ったのかは覚えている。

(参照:「本土決戦壕」戦争遺跡調査地図記号 Z)

16歳ごろの横山さん
16歳ごろの横山さん

 予科練解散の後、日本平で砲台を築いて、敵艦が駿河湾に入ってきたときに砲撃を加えるということで、私らは砲台の陣地構築に当たらせられた。聞こえはいいが「土方」ですね。2人で組になりもっこを担いで砂を運び出した。そして間もなく終戦になった。隊長は大内分隊士、隊員は30人ほどで組織された。頂上から30mぐらいの斜面に横穴を掘った。中の出来具合など見ることはできず、ただ掘った土を谷へと運び出す作業を続けた。中では海軍横須賀施設部の係官が指揮して仕事が続いていたが、指揮内容は一切極秘であった。復員後聞き及んだところでは、砲台に砲は据え付けられたが、発砲することはなかったという。土運びのほかに、ときにはセメント袋を肩に担いで運び上げたり、当番で朝夕弁当を宿舎(山裾の増田別荘)から頂上まで運搬したりした。宿舎では真夜中に班長によるしごきを受けたりして、酷い軍隊に嫌気を覚えた。

 予科錬15期で清水に来たのは1500人ぐらいいた。予科練解散後は、一部は横須賀へ、御前崎へ、伊豆へと、全部ばらばらに分かれて本土決戦の備えをさせられた。
 7月7日には清水が空襲された。碁盤の目になって燃え上がる清水の街を日本平の頂上から見ていることしかできなかった。むなしかった。
 8月15日玉音放送の後、私らは静浜に集められ飛行機の解体作業にかり出された。それを終え復員したのは8月23日だった。家路に就いた時はじめて涙を流した。

〔2018年7月16日、2019年4月21日〕


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【証言3】平沢観音付近で地下壕に迷い込んだ - 植田勤之助さん –

【証言③】有度山周辺

平沢観音付近で地下壕に迷い込んだ

植田勤之助(うえだ きんのすけ)さんの手記(当時 県立清水中学校3年 学徒勤労動員)

1930(昭和5)年生まれ

「迷 路」

 「オイ、コラ!」「貴様たちどうしてここへ来たのだ、ここは入ってはいかん、すぐ出ていけ、早く戻れ」突然大声で怒鳴られた。振り返ると戦闘帽を冠った下士官が顔を真っ赤にして突っ立っている。こりゃマズイ!一緒にいた仲間(この時の仲間は多分私と二人だけだったと思うが誰だったか思い出せない)と慌てて逃げ出した。昭和20年の夏の暑い日だった。

 前年12月、未曽有の大地震に見舞われ、米軍の空襲が始まって学校も学業を中断し、動員されて勤労奉仕や工場労働に就いていた。私たちのクラスは清水精機の工場で昼夜三交替の激務に就き、飛行機部品製造の工作機械を動かして6か月程経った7月の半ば、清水の街は焼夷弾の空襲で焼け野原、幸いにも工場は極く一部を除いて焼け残ったが、急遽山梨県へ工場を疎開することとなって機械の撤去作業が始まり動員解除となった。

中学2年ごろの植田さん(右端)
中学2年ごろの植田さん(右端)

 今度は、弁当持ちで朝8時に平澤寺に集合を指示された。それからは、毎日二人一組で角材を運ぶ労働に明け暮れた。平澤寺のいちばん奥の辺り(多分今の草薙団地のスポーツ広場と神社の境い目辺り)から横穴に入って作業現場まで運ぶことの繰り返し。坑道は角材をビッシリと並べたトンネルで資材がないからコンクリートは全然つかわれていない。ところどころに裸電球がぶら下がってはいるが暗く、且つ、下は土の剥きだしで滑り易く歩き難いことこのうえもない。角材を運んだトコロから奥の方の作業はすべて兵隊の仕事となっていて土を掘り、掘った土をモッコで担ぎ運び出している。トンネルは曲がりくねっており、また、いくつも分岐されていて迷いこんだら出てこられないのではないかのような迷路である。

中学2年ごろの植田さん(左から2人目)
中学2年ごろの植田さん(左から2人目)

 ある日、角材担ぎの仕事をサボッテ、仲間とこの迷路に挑戦した。いつもの作業のトンネルから途中で分岐した右方向を偵察しようと入り込み。右へ別れたり、左へ折れたり、もと来た道がわからなくなってしまうのではないかと心細くなる程歩いたら、急に広くなり明るくなった。そこは10畳よりやや広いくらいの円形にちかい空間で床も壁もコンクリートで固められていた。四角い窓から入る光で明るくなっていたのだ。そっと窓に近づいて外を覗くと右に谷津山、左に八幡山、静岡の中心地が目の前のすぐそこに広がって見えた。その景色に見とれていた時「オイ、コラ」の雷が落ちたのだ、考えてみればここは地下壕であり、入り込んだ場所は砲台、窓は銃眼であったのだ。まもなく大砲を据え付ける完成間際の場所へ入り込んでしまったのだから雷が落ちるのも当り前。要塞の完成が近づいたのか、それから間もなく民間人は立ち入り禁止となり我々の動員も解除となった。次に動員されたのが岩淵の山の要塞造りの穴掘りであり、その初日が8月15日であったのだ。

 あの日から50有余年。平澤寺の横を通るたびにあの時のことが思い浮かんできます。あの砲台の銃眼から覗いた景色、あの場所はどの辺りであろうか。現在の動物園の辺りだろうか、または、聖光学園辺りであろうか、そんなことを思い出す今日この頃です。

〔2019年5月3日〕

*午羊会編『午羊会のうた清水中学校卒業50年記念文集』(午羊会〔県立清水中学校第21回生〕、1998年)所収

「迷路」を一部修正


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【証言2】有度村で陣地構築に携わった - 前田義夫さん –

【証言②】有度山周辺

有度村で陣地構築に携わった

前田義夫(まえだ よしお)さんの証言の記録(当時19歳 陸軍歩兵第410連隊〔護古22254部隊〕兵士)

1926(大正15)年生まれ

元気なころ.70 代後半
元気なころ.70 代後半

 子どもは娘ばかり4人だったからでしょうか、父から戦争体験を聞いたことはありませんでした。

 私の育った時代は高度経済成長期で、大阪にて開かれた万国博覧会や沖縄海洋博のことなど妹たちと話をしておれば、急に父は「月月火水木金金、俺達は明日のない時代を生きてきたんだ」と言って話を切ってしまうのでした。8月15日の終戦記念日には正午の時報に合わせて黙とうをささげるサイレンが鳴ると、父はわざと音を立て茶碗からご飯をかきいれるのです。

 昭和20年4月、父は「護古22254部隊」に配属されます。駿河区池田にある青龍山本覚寺に寝泊まりし、上陸してきた米軍の戦車に爆弾を抱いて突っ込む作戦で、待機している穴を掘っていました。総勢60人が三交代制です。

20代のころ
20代のころ

 6月19日のその日は、午後3時から夜中の11時まで、班の作業を終えて横になったところ空襲が始まりました。静岡大空襲です。翌朝、静岡出身の者に外出許可がおりたそうです。出かけると曲金(まがりかね)のあたりは煙がもうもうとしていたそうです。葵町に着くと、焼けた家の前に父親の六之助の兄角太郎さんが立っていて、籠上中学校に避難したことを教えてもらい、そこで家族と再会しました。この時父は白い着物でいたと叔母の富子さんから聞きました。本覚寺までの帰り道に焼け残った草原があったので、門限まで横になって休んだそうです。

 

 平成26年8月父は間質性肺炎で亡くなりました。
 ベッドで鼻に管を入れ酸素を吸う父のそばにいて戦争のことを繰り返し尋ねました。

 「お父さんが出征するとき、母親のふくさんは何と言って見送ってくれたの?」「覚えてねえなあ」。そんな会話から始まりました。「無事に帰ってこれたときは、なんといって迎えてくれたの」「覚えてねえなあ。帰ってくるとお風呂が沸かしてあり、入るときにドラム缶に腰骨がコツンと当たって痛かったなあ。骨と皮だけだったもんなあ」。目をつぶり、瞼を震わせて「ひでえっけなあ」と言って、また話し始めてくれました。(中略)

 復員は8月19日、日曜日。家族面会日になっていて、家族が迎えに来た者は一緒に帰っていいということで、父親の六之助と帰ってきたそうです。町内で一番遅くに出征し一番早く帰ってきたことを、申し訳なさそうに言いました。

[2018年 娘前田展子による記録]


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【証言1】有度山で兵士の壕掘りを目撃した - 服部禎之さん –

【証言①】有度山周辺

有度山で兵士の壕掘りを目撃した

服部禎之(はっとりよしゆき)さんの証言(当時 国民学校高等科1年 兵士の壕掘りを目撃 その後調査)

1933(昭和8)年生まれ

服部禎之さん
インタビューを受ける服部さん

 防空壕は一般市民が作りそこに自分たちが入るが、有度山の壕は軍隊によって掘られていた。平沢へ上がっていく現在の美術館の下の道の竹やぶの中に砲弾が積んであったことや、三島の砲弾が美術館の下に積んであったことを記憶しているが、それは山に運ぶ前の段階であるので、それらは防空壕ではなく、本土決戦壕であったと思う。

 昭和20年3月に有度国民学校を卒業した。4月に母校に軍隊が入ってきて、軍隊と子どもたちが学校を共用する状態となった。有度山の陣地構築の部隊だという。4月3日から4日にかけて三菱の工場をねらった空襲があり、爆弾が実家の持山のあたりに落ちた。5月から6月頃には有度山に兵隊たちが駐屯するようになった。自宅から持山まで薪を取りに行く途中に、10畳ほどの掘立小屋が3つあり、そこに兵隊が暮らしていた。山全体にはさらに多くの兵隊がいたようだ。平沢まで(陸軍の)電話も引かれた。現在の野外劇場近くの崖の中腹にある壕は平沢の方角から馬や兵隊を使って掘ったという話だが、馬は塹壕を掘った後の廃土を運ぶのに使ったのだと思う。崖の下からつづら折りに道が続いていたため、下から容易に向かうことができた。

10代後半の服部さん.平沢観音で.(右)
10代後半の服部さん.平沢観音で.(右)

 7月7日の清水空襲では有度国民学校の一部が燃えた。
 軍隊が学校に留まり続ける一方で、子どもたちは学校を出されて各部落の寺で学習しなければならなかった。終戦直前には、草薙駅西の旧東海道の松並木の下に装甲車が何台も置いてあったのを見た。燃料の入ったドラム缶もあった。
戦後開けてみたらアルコールだった。

 静岡の決戦壕は掘削や弾薬の運搬などは進んでいたが、大砲などの兵器は調達がほとんどできていなかったようだ。戦後になり、その場所や武器を子どもたちが遊び道具とすることによる事故なども起きた。現在の県立大学のテニスコートのある場所に大きな壕が2つあった。戦後になってからそれらの壕に入ってみたら、砲弾があり、その砲弾口には、その砲弾が国道1号を目標にした狙撃のためのものであるという旨を描いた図が貼られていた。その壕も本土決戦用に作られた壕であることが分かった。

(参照:「本土決戦」壕戦争遺跡調査地図記号D)

 なぜ本土決戦壕を世に広めようと考えたかと言うと、静岡県内全域の戦争に関する遺跡についてまとめている本はあるが、静岡市付近に関する記述は非常に少なかった。しかし実際にはたくさんの戦争遺跡が静岡市付近にもあると考えており、その中の一つに本土決戦壕があった。そういった出来事を機に本土決戦壕の情報を収集し、自分の記憶も頼りにしつつ、各地の本土決戦壕場所を確認したり、調査するようになった。決戦壕の調査をするようになってから、壕の所在を知っている人物を探した。谷津山にあった防空壕を一緒に探した人もいた。鳥坂山の周辺にはまだ事情を知っている方がいるかもしれない。

[2018年4月9日、5月24日]


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「本土決戦」計画と静岡における準備状況

※写真をクリックすると拡大表示します。

1.本土における地上戦準備

1-1 兵力動員計画 ―根こそぎ動員―

山田朗『本土決戦の虚像と実像』より
山田朗『本土決戦の虚像と実像』より
 1944年7月、日本の占領地であったサイパン島がアメリカ軍の手に落ち、それにつづくレイテ決戦でも日本の連合艦隊は壊滅し、陸軍も約8万人の兵力を失って大敗した。
 こうして「絶対国防圏」が崩壊したため、大本営は1945年1月、「本土決戦」の構想を初めて明文化した「帝国陸海軍作戦計画大綱」を打ち出した。アメリカ軍が秋までに本土に上陸するという判断のもと、それまでに本土と朝鮮半島における「本土決戦」準備を終わらせることが明示され、小笠原や沖縄はそのための時間稼ぎと位置づけられた。陸軍においては、地域ごとの抗戦と自活を図るための作戦軍である「方面軍」の編成替えがなされた。

 4月、大本営は「決号作戦準備要綱」を発令した。これにより本土決戦を正式に「決号作戦」と名づけた。地域別に決1号から決7号作戦まで構想され、アメリカ軍主力の上陸地として想定した関東を決3号、九州を決6号作戦とした。上陸を10月以降と想定し、海軍は沿岸部での特攻部隊の出撃基地建設を、陸軍は「国土築城実施要綱」を発し、沿岸部や内陸部に防御や攻撃のための陣地構築を急いだ。3月に政府が制定していた「軍事特別措置法」により、国民の土地・建物を管理・使用・収用し、軍事施設の新設や拡張を行った。
 他方1月の時点で、陸海軍の主力は中国大陸・東南アジア・太平洋の島々にあり、本土を守る兵力は乏しかった。そこで、150万人の動員が計画され、3次にわたって根こそぎ動員が行われた。その結果、新たな編成を加え、陸軍は64個師団、300万人近い兵力を本土と朝鮮に確保した。行政面では、全国を8個のブロックに分け、それぞれに地方総監府を設置して、地方行政との連携を緊密にさせ、本土が分断された場合でも、戦争が継続できるようにした。

山田朗『本土決戦の虚像と実像』より
山田朗『本土決戦の虚像と実像』より

 

1-2 労働力動員計画 ―国民義勇隊―

 1945年3月、政府は全ての職場・学校・地域で「国民義勇隊」を組織することを閣議決定する。義勇隊は国民学校初等科修了(現在の小学校卒業)以上65歳以下の男子と45歳以下の女子から構成された。防空、空襲被害の復旧、警防・食料増産活動などの従事者として、また軍事施設の建設など陸海軍の作戦準備に協力する軍隊の補助要員でもあった。義勇隊や学生は沿岸部や内陸部の陣地構築などの土木工事に動員された。しかし、多くは資材不足のため敗戦時には未完であった。また、空襲時の延焼を防ぐため事前に民家を壊しておく「建物疎開」にも動員された。
 沖縄が制圧された6月、「義勇兵役法」が制定・公布され、義勇隊は「本土決戦」時には戦闘隊に転化して軍の指揮下で武器をとって戦うことになった。15歳以上 60歳以下の男子と17歳以上40歳以下の女子は全て「義勇兵」となり、「国民義勇戦闘隊」が組織される。その数は2,800万人にのぼり、在郷軍人などを指導者として竹槍訓練などが繰り返された。

 

2.静岡における状況

2-1 最前線の兵士たち ―沿岸配備師団 「護古部隊」―

 1945年春以降、静岡も全県が「本土決戦」の基地・陣地と化していた。
 陸軍については、第1総軍の下、軍隊の移動に困難がともなう薩埵峠付近を境に、東(決3号作戦地域)を第12方面軍と隷下の第53軍が、西(決4号作戦地域)を第13方面軍と隷下の第54軍が指揮を執っていた。この時点では、アメリカ軍が1946年春までに関東(相模湾・九十九里浜)に上陸し、その一部は東西の交通路の遮断と航空機基地獲得のために浜松と清水(のち御前崎)に上陸すると予想していた。

 県下には58,800人以上の地上軍が配備される計画があった。まず、2月の第1次兵備(根こそぎ動員)で新設された第143師団(通称「護古部隊」)が浜松地区(歩兵第409連隊・第411連隊・第412連隊)と清水地区(歩兵第410連隊)に配備され、「敵の主上陸を遠州灘正面(浜名湖~天竜川の間)と予想し、之を水際に撃滅するため」に横穴陣地の設定に励んでいた。「護古(ごこ)」とは「名古屋を護る」という意味である。師団司令部は井伊谷村に置かれ、兵力は17,000名とされた。護古部隊は、上陸してきたアメリカ軍を沿岸部の陣地帯で拘束して消耗させることを目的とする歩兵が主力の沿岸配備師団だった。しかし、老兵と若年兵がほとんどで、兵器はおろか軍靴さえも行きわたらず、決戦部隊というには程遠かった。銃剣は全兵力の50%、火砲70%、小銃80%、通信機類30%、機銃30%強、弾薬糧食は半会戦分というみじめさである。部隊の持久・後退も許されず、「守地即死地」の「はりつけ師団」だった。
 海軍もまた、アメリカ軍の上陸を阻むために、特攻艇の出撃基地を沼津・江ノ浦、清水・三保などに設置していた。

静岡県下に配備された陸軍地上部隊(1945年8月)
『静岡県史 通史編6 近現代二』より

静岡県下に配備された陸軍地上部隊 (1945年8月)『静岡県史 通史編6 近現代二』 より

 

本土決戦部隊系統表(静岡県に関連し、かつ主要なもののみを記載)
『静岡県史 通史編6近現代二』より

本土決戦部隊系統表(静岡県に関連し、かつ主要なもののみを記載)『静岡県史 通史編6近現代二』より

 
 

2-2 清水地区における陣地構築 ―有度村の「護古22254部隊」―

 三保飛行場のある清水には、第143師団隷下の歩兵第410連隊(護古22254部隊)が配備され(4月6日編成完結)、日本平のある有度山で「本土決戦壕」の構築を始めていた。陣地設定は大隊単位で行われた。連隊長は松井利生大佐であった。有度国民学校(現清水有度第一小学校)に連隊本部が置かれていたという。
 兵士たちは学校、寺、倉庫、旅館等に駐屯して壕を掘った。各自のノルマがあり、交替で掘り進めた。証言によると、軍靴が泥だらけになり、履いていられなくなることもあるので、藁草履が支給されることもあったようだ。壕の目的・用途については、「上陸する敵の戦車に爆弾を抱いて突っ込む作戦の待機所として」(証言②前田義夫さん)、「久能海岸での戦闘用」、「敵の上陸を阻止できなかった場合に、(山あいなどで)迎え撃つため」などの証言があった。また、駐屯地での待機中に「対戦車肉弾攻撃」訓練をしたという証言を幾つか得られた。「肉攻」すなわち、兵士が急造爆雷を抱えて敵の戦車の前に飛び込む自爆攻撃が戦法として最も重視されたからである。

 しかし、6月20日の空襲で火の海になった静岡市街を見た若い兵士は、「この戦争に勝ち目はない」と思ったという。7月7日には清水が空襲され、連隊本部の一部も焼失する。その連隊本部が置かれた国民学校を3月に卒業したばかりの少年は、軍隊は学校に残り、子どもと先生があちこちに疎開しなければならなかったことに胸を痛めたと証言している(証言①服部禎之さん)。有度山には、この時期に作られた壕が数多く残っている。

 静岡地区でも用宗・城山などで名古屋師管区歩兵第2補充隊が壕を掘り、長さ300メートルのトンネルが貫通したという証言が得られた。
 そのころ大本営は、「各総軍の作戦は沿岸で終わり、沿岸要域の決戦で敗れた総軍はその沿岸要域において玉砕する」という決号作戦の構想を徹底するよう第1・第2・航空総軍に通達する。7月17日の「第1総軍決号作戦計画」によって第13方面軍の作戦も「水際撃滅作戦の徹底」と「御前崎方面の重視」の2点を中心に変更され、8月7日に方面軍司令部に各兵団参謀長等が集まり示された。県内の各部隊も大小の移動が行われている。陸軍が空白であった御前崎方面には新設の独立混成第119旅団を配備し、独立混成第97旅団を藤枝に移駐させた。しかし、第一線の部隊に玉砕を強要した大本営は、長野県松代への移転準備を着々と進めていた。

 また清水地区に5月の第3次兵備により新設された独立混成第120旅団(通称「東天部隊」)が配置されつつあった。旅団司令部は庵原村に置かれ、兵力は6,200名とされた。しかし、人員・兵器の不足から部隊の編成は遅れた(欠員・欠数のまま7月26日編成完結)。8月に入隊した兵士経験者から、軽機関銃中隊だったが銃は無く、模擬銃で訓練を受けたという証言を得た。高部村には住民とともに鳥坂山で陣地構築をする東天部隊についての証言も残る。
 同じころ護古部隊の第3大隊は、瀬名・鳥坂・高部・飯田・庵原などに広く展開していた。東天部隊の編成に伴い、護古部隊は浜松地区・天竜川左岸の見付へ移動する計画であったが、清水で終戦を迎える。庵原村で訓練中であった東天部隊の兵士の周辺では、護古部隊が陣地構築を行なっており、「護古部隊は陣地構築の部隊、東天部隊はそこに行って守る部隊」と聞いたという証言を得た。
 第一戦の部隊では8月15日午前中まで「本土決戦」の準備は進められた。そして終戦後の9月15日、第143師団(護古部隊)の各歩兵連隊旗は、師団長・幕僚立会いの下で焼却された。

終戦時の静岡支隊 防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵
『大東亜戦争 第13方面軍 兵力配備要図(於昭和20年8月15日現在)』より抜粋

終戦時の静岡支隊

 

 一方、三保には海軍の特攻艇「震洋」(ベニヤ板でできたモーターボート)の出撃基地が作られた。第1特攻戦隊隷下で本部を沼津・江之浦に置く第15突撃隊は、第136震洋隊を三保に配備する。ただし、配備された震洋は5隻だった。震洋の格納庫を造った海軍飛行予科練習生15期の少年兵経験者(証言④横山健治さん)によれば、6月予科練が解散になった後は、敵艦が駿河湾に入ったときに攻撃を加えるということで、終戦まで日本平で砲台の構築に当たり、その後8月23日に復員するまで静浜で飛行機の解体作業を行なったという。
第15突撃隊の基地
歴史教育者協議会編 『幻ではなかった本土決戦』 より

終戦時の静岡支隊

 

2-3 戦場の住民 ― 国民義勇隊と学徒隊 ―

 住民の動員については、5月中に、県知事を隊長とする「静岡県国民義勇隊本部」、7つの「市国民義勇隊」、290の「町村国民義勇隊」等の地域義勇隊が結成されたのに次いで、7月までには167の職域義勇隊が設けられた。6月18日浜松、20日静岡、7月7日清水で出動命令を受けた義勇隊は、空襲後の炊き出し、救護、死体収容、道路等の後片付けに従事した。知事は、国民義勇隊について「最後最終の国民組織であり、戦争に必要なことはなんでもやってゆく」と述べている。
 国民義勇隊の編成に照応して、5月には「戦時教育令」が公布され、主に学校単位で「学徒隊」が組織される。すでに3月の「決戦教育措置要綱」によって、国民学校初等科を除く全ての学校の授業が1年間停止されていた。
両者は県の防衛施設の建設にも動員された。7月10日に東海軍管区の要望による「敵上陸ノ場合、軍隊及軍需品運搬ノ為」の作戦道路としての緊急道路(二俣~静岡)が、7月20日には「戦闘義勇隊ノ特攻基地」となる横穴防衛地下施設(総延長15,000メートル)が建設され始めたという。

 軍の陣地構築などの土木工事に動員されたのも国民義勇隊や学徒隊だった。有度山での陣地構築については、由比町「勤労動員関係書類綴」に国民義勇隊の「有度地区」「護古部隊」「国防土建作業」への出動命令記録が残る。清水中学(現清水東高等学校)などの生徒も「決戦壕掘り」と呼ばれていた陣地構築に動員された。兵士が掘り出した壕の土砂を二人一組になり天秤棒でモッコを担ぎ、離れた場所に捨てに行ったという。「野砲に使う」というトンネルを掘った生徒もいる。さらに別の証言では、「角材を運ぶ労働だった。平澤観音付近の壕の一つは、曲がりくねったトンネルがいくつも分岐されていて迷路のよう。偶然入り込んだ10畳ほどの空間には四角い窓(銃眼)があり、右に谷津山、左に八幡山、静岡の中心地が目前に広がっていた」という(証言⑦植田勤之助さん)。生徒たちの中には「駿河湾からの米軍上陸に備えて、全山をトーチカ化する」という構想を聞かされた者もいた。

 住民への動員要請については、町内に動員数を割り当て、順番で家ごとに壕堀りの手伝いを出した。男たちの多くは出征しているので、ほとんどが成人女性だったが、家の農作業を手伝う少女が行くこともあったという。(証言⑤斉藤サツキさん)家によっては庭木まで供出して陣地構築に協力したが、空襲の時、施設への立入は許されない場合が多かった。また、戦後落盤による被害者も出ている。第143師団(護古部隊)参謀の戦後の回想では、陣地は予定の3分の1が構築されたという。労働力としての動員や私有地の軍用転化の合法化など、基地・陣地の設営が住民の生活に与えた影響は大きかった。
 しかし、アメリカ軍は結局のところ、「静岡県への上陸計画」を全く考えていなかった。

 
 

 静岡県下で「私も壕を掘った」「壕を掘った人を知っている」という方は、当センターにご一報ください。
 また証言など、もう少し詳しくお知りになりたい方は、冊子にまとめてありますので、当センターへお問い合わせください。


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本土決戦壕 戦争遺跡調査地図(静岡市)

 

 

記号 壕のあった山 壕のあった場所 現状 写真 証言 No. 調査者
有度山周辺 静鉄県総合運動場駅旧ブラットホーム 地下壕 消失 1
有度山周辺 中之郷鳳林寺前 寺西 塹壕 消失 1
有度山周辺 県立美術館ロダン館下(元大連寺下) 塹壕 消失 1
有度山周辺 県立大テニスコート上(元大連寺)大型丸トーチカ 2 か所 消失 1
有度山周辺 Dより下に続いた地下壕の出口 県立大体育館北東 消失 1
有度山周辺 元大連寺トーチカ裏 南側 壕 消失 1
有度山周辺 小雑子 大字東山 壕 消失 1
有度山周辺 クラガリ沢 壕 痕跡残存 2
有度山周辺 平沢 静清乗馬クラブ西(元岩本馬場) 痕跡残存 1
有度山周辺 舟ガ窪入口 茶畑の上 壕 青沢 痕跡残存 1
有度山周辺 北矢部旧火葬場付近第一大子母沢橋下流 2 か所 消失 2
有度山周辺 雑子ヶ谷沢川下 壕 消失 1
有度山周辺 雑子ヶ谷沢川上 平沢寺裏山 壕 消失 1
梶原山・鳥坂 梶原堂いこいの家と清太谷津付近に出口のある壕 消失 1
有度山周辺 大慈悲院付近現英和大学構内 U型壕 途中まで 消失 3
有度山周辺 日本平パークウェイ沿い西平松 U型壕 2 か所 痕跡残存 3
Q 梶原山・瀬名 「幕ケ谷神社周辺で兵士が壕を掘った」証言 消失 3
有度山周辺 日本平パークウェイ沿い小鹿 展望台付近 U型壕 痕跡残存 3
有度山周辺 馬走 「司令部壕か」 炭焼平 消失 1
有度山周辺 馬走 ふつうの壕 坂の上自治会館 消失 1
有度山周辺 馬走 「弾薬庫壕か」 馬走自治会館東 消失 1
有度山周辺 船越堤公園 壕 2 か所 消失 1
有度山周辺 舞台芸術公園駐車場下 壕 痕跡残存 2
有度山周辺 平沢観音 墓地奥 壕 3 か所 痕跡残存 3
有度山周辺 ゴルフ場北 貫通壕等 3 か所 痕跡残存 3
有度山周辺 日本平山頂下 駿河湾を望む 海軍の壕 痕跡残存 3
用宗・城山周辺 城山 海を臨む壕 場所特定困難 不明 3
谷津山 「爆雷を抱いた兵を隠す壕があった」証言 消失 1
庵原山地周辺 「庵原村周辺で護古部隊が壕を掘った」証言 不明 3
秋葉山 秋葉山公園南側 消失 3

調査者
1:服部禎之(~2012年12月)
2:服部禎之および静岡平和資料センター(2013年1月~2017年8月)
3:静岡平和資料センター(2017年9月~2020年3月)


 
 

本土決戦遺構の写真

 

E 県立大テニスコートから続いた壕の出口/消失
F 元大連寺トーチカ裏/消失
K 北矢部/消失
P 日本平パークウェイ沿い小鹿/痕跡残存
R1 日本平パークウェイ沿い西平松/痕跡残存
R2 日本平パークウェイ沿い西平松/痕跡残存
Q 幕ケ谷神社/消失
V 船越堤公園/消失
W 舞台芸術公園駐車場下/痕跡残存
X 平沢観音墓地奥/痕跡残存
Y ゴルフ場北 貫通壕/痕跡残存
Z 日本平山頂下 海軍の壕/痕跡残存

 

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陸軍歩兵第34連隊(静岡連隊)

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桜井豊八・鎌三・豊三 三代の戦争

静岡市大谷(旧有渡郡→安倍郡大谷村→静岡市大谷)
桜井
豊八・鎌三・豊三 三代の戦争 西南戦争~太平洋戦争

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