満州事変と、国策としての「満州開拓」

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日中戦争開始と長谷川すゑライフヒストリー

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 1937年7月7日、北京の近くで、駐留していた日本軍と中国軍との間に軍事衝突が起こりました。続いて8月に、上海で新たな事件が起こると、歩兵第34連隊にも出動命令が下り、日本は中国との全面戦争に入っていきます。

 12月に首都南京を占領すると、日本中で、そして静岡でも提灯行列をして戦勝を祝いました。南京占領下で日本軍は、投降した中国人捕虜、一般市民を殺害・暴行し、おびただしい数の犠牲者を出しました。中国政府は首都を内陸部の重慶に移し、抗戦を続けます。日本軍は、この重慶を200回以上にわたり、無差別爆撃しました。
 政府が「支那事変」と名づけた日中戦争は8年間続きます。若い現役兵ばかりか、臨時召集令状(赤紙)で再召集された兵隊も続々と中国大陸に出征し、日本軍は45万人以上の戦死者を出しました。一方、民間人多数を含む中国の死者は1000万人を超えると言われています。

 日中戦争が起こると、近衛文麿内閣は「挙国一致」を呼びかけ、国民みんなが力を合わせて戦争に立ち向かうよう、引き締めを行ないました。
 静岡ではすぐに在郷軍人会が臨時大会を開いたのをはじめ、青年団、国防婦人会、小学校校長会などが「挙国一致」の声明を出しています。

 1938年には「国家総動員法」(すべてのものを根こそぎ戦争のために動かす法律)がつくられました。軍事力・経済力・人的能力のすべてを投入する総力戦の体制となったのです。
 国民には戦争協力が強制され、1940年大政翼賛会が結成されると、10戸を単位とした隣組が組織され、伝達・配給・防空・監視・防諜などの役割が課せられました。

 

長谷川すゑ 夫は赤紙召集1か月後上海で戦死

 


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アメリカ・イギリスへの宣戦布告

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近藤軍八郎 「玉砕」の島サイパンからの生還

近藤軍八郎「玉砕」の島サイパンからの生還

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サイパン島の人びと
 サイパンは、現在は、正式には「北マリアナ諸島自治連邦区 The Commonwealth of the Northern Mariana Islands」と称するアメリカ合衆国の自治領である。

 サイパンの歴史は波乱に満ちている。
 マゼランがスペインの艦隊を率いて北マリアナを発見して以来、スペインが領地宣言をして植民地にした。しかし、19世紀末にスペインは島をドイツに売却した。
 1900年代に入ると第一次世界大戦が終結するまでのほんの短い期間、日本はアメリカ合衆国、大英帝国、フランスと同盟を結び、戦勝国となった。そしてドイツが敗戦する第一次世界大戦終結によって、国際連盟の元で1920年からマリアナ諸島は日本の委任統治領となった。

 1935年に日本は国際連盟を脱退したけれどもマリアナ諸島の統治を続け、事実上併合し、南洋群島とよんだ。多数の日本人が移民として島に渡り、サトウキビを栽培し、漁業を営んだ。島にはチャモロ人、カロリン人3000人も住んでいた。
 島は戦争末期に日米の激戦地となり、4万人の日本兵と1万人の民間人が死亡。「玉砕(全滅のことを美化した言い方)の島」といわれた。

 米軍はグアム島・サイパン島・テニアン島を制圧したあと、日本本土を空襲するための飛行場を建設する。グアム島から飛び立ったB29は、1945年6月20日静岡市街を空襲した。テニアン島から飛び立ったB29は、7月7日清水市街を空襲した。


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伊藤貞司 戦傷を負いフィリピン・ネグロス島に歿す

伊藤貞司 戦傷を負いフィリピン・ネグロス島に歿す

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 1946年(昭和21)8月。静岡市用宗に住む父親に公式な死亡通知が届いた。
 「陸軍中尉伊藤貞司、右昭和20年9月20日ネグロス島バゴロドニ於テ戦傷死セラレ候」。22歳。兵役について1年9か月後のことであった。

 1923年(大正12)2月26日、静岡市人宿町で生まれた貞司は、1940年、県立商業学校を優秀な成績で卒業。同年1月には静岡大火で実家の店舗住居を全焼したので、自家復興のため家業に従事した後、1942年、徴兵猶予のある名古屋高等商業学校に入学し、学生生活を始める。その後1年間父との頻繁(ひんぱん)な書簡の往復がある。時局が緊迫している最中なので、進路について、大学進学か軍人になるか、揺れ動く気持ちを父に訴えている。ようやく意を決して東京商科大学(現一橋大学)を目指して猛勉強を始めたことも伝えている。
 1943年10月、徴兵検査のため帰郷。その後指導教官から「卒業後進んで兵役につく道を選ぶのが安全」との話を聞き、心が揺れる。1943年11月名古屋高等商業学校仮卒業。そして幹部候補生採用願を提出する。そこで軍人の道に進む決心をしたのだった。
 1946年2月、戦友から両親宛てに葉書が届く。フィリピンのネグロス島で、1945年8月13日グラマン戦闘機爆撃により貞司は傷を負った。8月末に、部隊は米軍に投降した。すぐに病院に収容されたが、9月、傷が元で死亡したことを知らせる葉書だった。

フィリピンの人びと
 日本軍は真珠湾攻撃直後の1941年12月22日に、当時はアメリカの植民地であったルソン島に上陸し、翌年1月2日に首都マニラを占領した。この時フィリピン防衛にあたっていたのは米軍極東陸軍であり、司令官はダグラス・マッカーサーであった。
 1942年4月から5月にかけてバターン半島とコレヒドール島に立てこもっていたアメリカ軍とフィリピン軍は次々降伏し、6月には戦闘はほぼ終了した。マッカーサーはオーストラリアに退去した。
 この戦闘で日本軍はアメリカ軍とフィリピン軍の捕虜と難民を管理下に置いたが、捕虜収容所移動の際100㎞を越える距離を歩かせ、アメリカ人2330人を含む7000~1万人が死亡する出来事(「バターン死の行進」とよばれる)があった。

 フィリピンはアメリカ植民地となってはいたが、独立派の活動で徐々に自治が認められ、1934年にはアメリカ議会は10年後の独立を認めていた。
 日本軍による占領の結果、アメリカへの経済依存度の高かったフィリピンは困窮し、日本軍の軍票(紙幣代わりに日本軍が発行した紙)濫発でインフレーションが発生した。上述の「バターン死の行進」もあり、フィリピンの人びとの反日感情は強く、日本軍への抵抗は根強かった。フクバラハップ団とよばれる農民・労働者のゲリラや、もとのアメリカ軍・フィリピン軍将兵らのゲリラをはじめ、100以上の組織が抵抗を続けたといわれる。

 1944年・45年はフィリピン奪回を目ざす連合国軍(マッカーサーが還ってきた)と占領日本軍との間で、激しい戦闘が繰り広げられた。
 アジア太平洋戦争において、フィリピンでは50万人以上の日本人戦没者が出ている。しかし、日米決戦の地となったためにフィリピン政府の推計で100万人を超えるフィリピン人が死亡した。1945年2月の「マニラ市街戦」では民間人10万人が亡くなったといわれている。東京大空襲死者や沖縄戦死者と同じ規模の犠牲であった。

参考資料:映像文化協会『教えられなかった戦争・フィリピン編』・『ブリタニカ国際大百科事典』・Wikipedia「フィリピンの戦い」2020.3.19閲覧


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戦争は終わらず・・・シベリア抑留

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 1945年(昭和20)8月14日、日本政府はポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌15日昼、昭和天皇はラジオ放送で戦争終結を国民に伝えました。9月2日、降伏文書に調印し、日本は無条件降伏しました。そして、1952年まで日本はアメリカ主力の連合国軍の占領下に置かれます。連合国最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府を通じて支配する間接統治でした。
 静岡市には1945年11月占領軍約1400人が進駐しました。

 しかし、「満州」に置き去りにされた女性や子ども、樺太の人たち、強制労働のためにシベリアに抑留された兵士、そして沖縄・小笠原諸島の人びとにとって、「戦争」は終わりにはなりませんでした。

 1945年、8月9日、ソ連軍が宣戦布告をして電撃的攻撃を開始します。日本軍の支配地域満州、北朝鮮、樺太、千島列島をまたたく間にソ連軍が占領しました。そして、8月23日、スターリンの命令により、戦争で荒廃したソ連復興に必要な労働力として60万とも70万ともいわれる軍人や一般の日本人が、強制的にソ連に連行されました。そして、零下40度を超える酷寒のシベリアをはじめとし、モンゴルや中央アジアなどソ連全域の収容所に送られました。
 収容所の食料事情は極端に悪く常に飢餓状態にあり、衛生上の設備・管理が全く不備であったため、チフスや赤痢の疾病を防げませんでした。さらに軍隊の階級制度が、下級兵士に過酷な条件を強いたため、シベリア鉄道建設、森林伐採、鉱山での重労働はとても過酷なものとなりました。


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