|
戦争末期、敗色濃い日本軍は、イギリス・アメリカ・インド連合軍による中国国民軍への補給路を断つために、ビルマ(現ミャンマー)からインド北東部の補給基地・インパールへの攻略を企てました。 |
厳しい現地の立地条件や補給線も無視したこの無謀な作戦に、現地司令官たちは反対しました。しかし、時の首相であった東条英機、牟田口中将ら最高幹部はこれを無視し、1944(昭和19)年3月8日から7月3日にかけて作戦を強行しました。参加兵力はおよそ9万名。 |
|
|
望月耕一さんの体験画 |
|
|
望月耕一さんの『瞼のインパール』 |
|
|
雨季の熱帯ジャングルや、2,000kmを越す山岳地帯の道なき道を、食糧補給もなく、命令のままに黙々と進んだ兵士たち。歩けなくなれば死……。戦死3万8000名。飢え、マラリヤ、赤痢、自殺などで4万人の犠牲者を出して、日本軍は壊滅しました。 |
退却路には、ウジのわいた日本兵の腐乱死体や白骨が累々と横たわり、日本兵はこれを「白骨街道」と呼びました……。 |
|
|
1年4か月にわたって最前線で戦い、かろうじて生き残った一兵士、望月耕一さんは、この30枚の体験画と手記により、「戦いの惨状は、明らかに無謀な日本軍がつくったこの世の地獄」と証言し、その実態をありのままに描いています。 |
|
望月耕一さん |
|
望月耕一さんの略歴 |
■1922年11月 |
庵原町(現静岡市清水区)生まれ |
■1942年12月 |
中部13部隊入隊 |
■1943年3月 |
南支広東104師団編入 |
■1943年4月 |
烈兵団衛生隊車両中隊指揮班に転属 |
■1943年6月 |
仏印(現ベトナム)転進 |
■1943年7月 |
カンボジア転進 |
■1943年8月 |
バンコク進駐 |
■1943年8月中旬 |
マレー半島上陸 |
■1943年9月 |
ラングーン(ビルマ)上陸 |
■1943年11月 |
北ビルマに転進 |
■1944年3月 |
インパール戦参加 |
■1944年8月 |
インド‐ビルマに反転 |
■1945年1月 |
イラワジ川戦に参加 |
■1945年5月 |
サルイン川防衛線参加中、終戦 |
■1947年5月まで |
抑留捕虜生活 |
■1947年6月 |
復員 |
|