トップページ>展示案内>過去の展示>ある軍国少年が見た戦時下の大人たち
戦時中の日本は、庶民にとって家族や友人を失い、空襲で焼け出され、食べ物はなく空腹に耐える生活でした。そして、子どもたちは戦争要員(いわゆる軍国少年・少女)として教育されたのです。
敗戦から66年がたち、そのことを知る人は少なくなりました。17歳で敗戦を迎えたひとりの軍国少年の日常は、今からは想像もつかないおかしな事ばかりでした。
今回の企画展は、戦争体験者が少なくなる中、少年時代のエピソードをパネルと資料によって展示するという、戦争体験を後世に伝える新たな試みです。
【右上-戦死者の葬列。左下-米占領軍が撮った葬儀。右下-空襲跡に建つ仮住まい。いずれも静岡市内。】
兄さんも戦死してよ!
井の宮町に戦死者を出した家があった。その家には道路に面して戦死者を祀る立派な祭壇がつくられ、道行く人たちは皆、その前で深々と礼拝し、軍隊が通過するときは、その前に整列して「奉げ銃」の参拝をした。遺族が丁重に扱われる様子を、小学生の妹はうらやましく思ったのか、私に「兄さんも早く戦死してよ」と言った。
敗戦近くなると、様相は一変した。袋井の村役場から鈴木家に届いた戦死通知書は、メモ用紙に戦死者名と戦死年月日が走り書きで書かれていただけだった。遺族は怒り悲しんだ。
不忠な親
家庭が貧しく中学校に進学できない生徒は、少年航空兵や少年戦車兵などに憧れた。予科練や戦車学校へ入れば、親に経済的な負担をかけず、中学と同様な教育も受けられると思ったからだ。私は、親の承諾なしに少年戦車兵志願を先生に申し出た。「民草として、天皇陛下に命を捧げる」という大義もある。
ところが志願を知った父親は、顔色を変え教師の所へ行き「次三男なら許すが、息子は長男だ、志願は許さない」と言って取り下げてしまった。親の本音が読めない私は、「なんと不忠な父であることよ」と父親を恨んだ。
泣いた兵隊
静岡歩兵第34連隊の出征には、大勢の見送人が道路の両側で旗を振り、声を枯らして万歳を叫んだ。ところが、或る出征のとき、興奮した見送人が、突然、溢れるように隊列の中になだれ込み、行進が一時停止の状態となった。その僅かな混乱した時間に、あちらこちらで、兵隊と家族が涙を流して別れを惜しんだ。
牧ケ谷で農家を営む叔父も、私の父に涙を流しながら、残された幼児や家族のことを頼んでいた。でも、傍らにいた私は、銃剣で軍装した大日本帝国陸軍軍人たちが流す涙を理解できなかった。女々しいとさえ思った。
少年航空兵
クラスメートが、少年航空兵に合格した。その彼の兄も少年航空兵であったことから、「兄弟で少年航空兵」と新聞に大きく報道された。先生も、その名誉を称えた記事を誇らしげに語っていた。間もなく宮ケ崎の写真店には、彼が飛行服を着て、額に風防グラスをした勇ましい姿が、大判の写真でショウウインドウに飾られた。
軍国少年といっても、しょせん、幼稚な自尊心や気負った愛国心に過ぎない。戦車兵の応募を父に取り下げられた私は、彼に一歩先を越されたことが、とても悔しかった。
警察でお仕置き
安東本町の農家のおばさんは、自家でつくった野菜をリヤカーで売り歩いていた。おしゃべり好きな人で、皆から好かれていた。いく日か休んで、久しぶりに来たとき、顔が腫れていた。あとで母は、「おばさんがおしゃべりしたことを誰かが警察に密告したため、警察に呼び出され、ひどいお仕置きをされたそうだよ」と言っていた。
理髪店での雑談で、妻や息子のことを「うちの皇后陛下と皇太子がネー」としゃべったことが警官に咎められ、ひと晩、留置場へ入れられた話もあった。
憲兵に殴られる
憲兵は陸軍大臣に所属し、権限も大きい。私が勤めるようになった静岡駅に育ちのよさそうな若い憲兵上等兵がいた。ある日、私は柄の長い点検ハンマーを持って、列車の点検を終わると、反対側に停車していた貨物列車に鉄くずが山のように積まれた貨車を見た。
そこで、何気なく、その長いハンマーでコンコンとその鉄くずを叩いた。すると憲兵上等兵がそれを見つけ、ツカツカと近づいてくると、私を思いっきり数回殴りつけた。なぜ殴られたのか分からない。でも憲兵への反抗は許されない。その鉄くずは日本の戦闘機の残骸だった。
憎き敵「鬼畜米英」
部隊が全滅すると政府は「玉砕」という美しい言葉で発表し、勇壮なる武士道精神と称賛、少年の私もそれを聞き感動した。しかし、敗走した軍隊を「転進」と呼ぶようになると、軍国少年も庶民も、戦争に漠然とした不安を抱き始めた。
そのため政府は、国民の戦闘意欲を高めるため「鬼畜米英」を大々的に宣伝し始めた。アメリカの大統領の部屋に頭蓋骨が置かれている新聞写真を見て、先史学も考古学も知らない私は、なるほど米英は、教科書で教わった台湾の首狩り族と同じように鬼畜だな、と思った。
日本軍が強い理由は日の丸弁当
敗戦の5年前頃までは、児童が学校へ持参する弁当も、白米のご飯に梅干し1個、紫蘇の葉、黄色い沢庵数枚が日の丸弁当の定番であった。先生も、日本の軍隊が強いのは、日の丸弁当だからと米と梅干しの効用を強調していた。
敗戦1年前頃になると、食糧事情は厳しくなり、7人家族の我が家の勝手場では、大鍋に1合ほどの白米と、大根の千切り、野原から摘んできた芹等をいっぱい入れて、米が糊のように解けるまで煮込み、塩で味をつけて食事とした。食べ終わったときは満腹だったが、直ぐに空腹を感じた。
逃げるな、家を護れ
警防団の指導者が、空襲から逃れようとする住民に向かって「逃げるな、街を護れ」と叫び制止していた。だが、自身も猛火に包まれ、防火用水で立ち姿の焼死体となってしまった。
私もその夜は当直で、大空襲に遭遇したが、度々教わった消火訓練は全く通用しなかった。火の海を、ひたすら壕から壕へと逃げ回った。逃げる途中、駅前の広場へきたとき、燃え上がる松坂屋ビルの上空を、超低空で西へ飛ぶB29の巨体を見た。こんなにも低く飛ぶのかと、びっくりした。後日、空中衝突で墜落した2機のうちの1機であることを知った。
消さぬとぶち殺すぞ!
職場が完全に炎に包まれ、近くのT字型防空壕に逃げる。だが、そこの壕は既に満員、入り口で身を潜める。すると、近くの建物も強い白色の光をだし燃え始め、火の粉が風に乗って防空壕の中を通過し始めた。T字壕の一番安全な位置にいる者が「入り口の者、火の粉を消せい!消さぬとぶち殺すぞ!」と怒鳴り始めた。
近くの森下小学校に駐屯している兵隊たちだ。早々と民衆より先に防空壕に退避し、自分を守るために民間人を罵倒している。これが日本軍の本性かと不信感を抱く。そして、火の粉の舞う風の中を、未だ燃えていない八幡(やわた)方面へ逃げた。
大八車の救急車
空襲が終わり、焼け跡へ職員が出勤してくると、職場の同僚の山本家が救護を求めているとの連絡を受け、数人で大八車を引いて救援に向かった。現地へ着くと、すでに死んでいる幼児を抱き、着物は焼け、裸同然の女性が地面に座っていた。
ともあれ、少しでも早く日赤病院まで運ばねばならない。大八車に乗せるため、女性を抱きかかえようとしたら、水ぶくれがプチュッとつぶれ、ヒーッと悲鳴をあげた。それでも、強引に乗せ、焼け跡のガタガタ道をクッションのない車で急いだ。拷問のような運搬だったに違いない。数日後、彼女は亡くなった。
人間の蒸し焼き
山本さんの庭にあった防空壕は、自分の家が焼け落ち、壕の中は蒸し焼き状態になっていた。
山本さんのおばあちゃんが壕の中にいるから様子を見てこいとの指示で、戸を開けて入ると、サウナ風呂のような熱気だ。中に誰かが寝ていた。「もしもし」と肩をゆすったが返事は無い。体は異常に熱い。そこで、死んでいると勝手に判断し、息苦しさにあわてて外へ飛び出し、入口の戸をパタンと閉めた。
後日、もし、あのときおばあちゃんがまだ生きていたとしたら、私は地獄の蓋を閉めたことになると、自分の軽々な判断を後悔した。
草鞋履きの兵隊
空襲の一夜が明け、けが人の救出も終わり帰宅する途中、片羽町の造り酒屋の大きなトタン塀も、飛行機の翼のように、焼け落ちていた。そこへ、上の方から20人ほどの兵隊が隊列を組んで降りてきた。そして私に「あれはB29の残骸でありますか」と声をかけてきた。
その隊列の中には竹製の銃剣を持つ兵や、草鞋履きの兵もいた。なんともみじめな装備だ。それにしてもこの兵隊たち、今頃まで、何をしていたのだろう。敵機が去ったら、一番先に市内へ入り救援活動をすべきではなかったか。私の軍隊への信頼感が消えた日だった。
家が焼けて「ごせっぽい」
毎晩のような空襲警報だが、父はそのたびに子どもたちを防空壕へ入れ、母親にも急かした。ところが母は、「爆弾が落ち始めてからでも間に合う」と赤子を抱いて布団から出ようとしない。毎回、急かす父の声に疲れ、ノイローゼ気味だったのだ。
やがて本格的な大空襲で、遂に我が家も焼けてしまったが、防空壕でなく、賎機山へ逃げて幸い家族全員が無事であった。その後、防空壕が寝る場所になった母親が、ある日、すっきりした顔つきで「ああ、家が焼けて、ごせっぽい」と言った。これからは、空襲警報でもゆっくり眠れるからだ。
鬼も泣く人道無惨
B29爆撃機が空中衝突し、2機が墜落した。1機は安倍川西岸に、1機は機体が割れ、田町と安西に落ちた。墜落を知った市民が駆けつけ、機体から這い出てきた兵隊を、大勢の避難民たちが、刈り取ってあった桑の枝などで、顔や体を滅茶苦茶に刺し殺したという。家を焼かれ、肉親を失った恨みが、敬虔な仏教徒を鬼とし、人間を凌辱した。
敵機乗組員も、川原に避難する群衆を上空から焼夷弾で焼き殺す鬼であった。毎年の空襲犠牲者を慰霊する集会に、この残虐な事実も語り継がないと、真の慰霊はあり得ない。
焼けトタンの三角屋根
防空壕はどこの家庭も自力で建設した。セメントもパネルもなく、多くは、地面をショベルで掘って戸板か何かでの簡単な土止めをした程度であった。庭がなく床下に造った家は、かえって大変危険な場所となった。
空襲が終わり、街が焼け野原になると、どこの家も灰や瓦で埋まった防空壕を掘り出した。そして、その上に焼け残った柱やトタンで三角屋根を造り、住居にした。狭い防空壕で、みな動物のように体を寄せ合って寝た。
入れきれない者は、夜露をしのぐ工夫をして焦土の上でビバーク(登山の野営)した。
※ 展示パネルをお貸しします。お問い合わせは、お電話ください。
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