静岡・清水空襲
※慰霊のための安倍川の花火
~静岡・清水にも無差別空襲があった~
駿河湾は、米軍爆撃機B29が首都圏や名古屋方面へ向かう通り道でした。そのため、静岡・清水地域は、本土空襲の余波を受け静岡地区で15回、清水地区で11回、計26回の空襲を数えます。召集で働き手を失った多くの人々は、食料など究極の生活物資不足にあえぎ、強まる情報統制の中で、実に9ヶ月もの間、いま来るかもしれない空襲の恐怖にさらされていました。アメリカは、日本の都市と工業を破壊して戦争を続ける能力を絶ち、国民の戦意を失わせ、降伏に追い込もうとする戦略爆撃を行いました。この攻撃は大きく3つの時期に区分することができ、静岡・清水地域の空襲からもそれを読み取ることができます。当地域の空襲は、いわば日本本土空襲のミニュチア版ということができます。
静岡への主な空襲・第Ⅰ期 1944年11月24日~1945年3月4日
この時期の爆撃は、上空の強いジェット気流の影響や気象条件などで困難をきわめた。
当地域へは東京都の中島飛行機武蔵製作所への往路・帰路に爆弾が投下されている。
1944年12/27、1945年1/27、2/19
3/4 清水の宮代・大手町に爆弾投下 3人死亡(注1)
3/6 静岡の西島・一中などに爆弾投下 5人死亡
※この日はレーダー写真撮影のため
※(注1)死亡者の数は、推定の静岡空襲以外は戦略爆撃調査団報告書による
静岡への主な空襲・第Ⅱ期 1945年3月10日~6月15日
司令官がルメイに代わり、作戦は街を焼き尽くす夜間焼夷空襲に転換。3/10の東京大空襲に続き7大都市を焼いた後、B29部隊は沖縄戦の支援へ。その間軍需工場へ爆撃が続く。
4/4 三菱工場への夜間爆撃がそれ、静岡・清水で190人以上が死亡(注2)
4/12 三菱工場への白昼爆撃 1人死亡 中島飛行機への往路・帰路
4/24 住友工場への白昼爆撃 26人死亡 立川・日立航空機からの帰路(注3)
5/24 静岡・安西地区へ夜間焼夷空襲 37人死亡 東京市街地空襲への往路
以上の他、4/7、5/19、6/10にも軍需工場爆撃の往路・帰路の投弾があった。
※(注2)正確には三菱重工業静岡発動機製作所 (注3)住友軽金属プロペラ製造所静岡製作所
静岡への主な空襲・第Ⅲ期 1945年6月17日~8月15日
大都市に続き、57の中小都市が夜間焼夷空襲を受け、焦土となった。
7/7 清水空襲 第6回中小都市空襲 151人死亡
(画・酒井千里 清水市役所炎上)
7/31 清水市へ駆逐艦による艦砲射撃 44人死亡
8/1 清水市へ爆弾投下32人死亡 川崎石油コンビナートの帰路
以上の他、7/30には海軍艦載機による攻撃、8/2には清水へ八王子空襲帰路の空襲
市民は終戦間際まで空襲にさらされましたが、静岡県内では浜松・沼津が中小都市空襲で焦土となり、島田に模擬原爆が投下されるなど、死傷者の数は全国でも第8位にのぼっています。
旧陸軍静岡連隊の遺跡遺跡
【写真左上:1939年当時の駿府城跡、内堀に沿って兵舎が建ち並んでいる。】
【写真右上:現在の駿府公園、右側の木立の中に記念碑がある。】
【写真左下:かつてここに静岡連隊があったことを物語る記念碑。】
【写真右下:静岡連隊の将校集会場。駿府城跡にあったものを護国神社へ移築した。】
護国神社の境内には全員戦死(玉砕)した郷土部隊の記念碑が数多くたてられています
【写真左:満蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍として、県内から「旧満州」へ渡り亡くなった人々の慰霊に建てられた拓魂碑】【写真右:護国神社内の静岡県戦没者遺品館】
静岡空襲を物語る遺跡は市内に少なくなりました
【写真上左:駿府公園やすらぎの塔近くにある戦争犠牲者追悼碑。静岡空襲犠牲者を追悼するために、静岡平和資料館をつくる会などの要請を受けて静岡市が設置。】
【写真上右:江戸時代から代々伊豆屋伝八を継承する渡邊家の阿弥陀如来像を祀るお堂で、庵号を「不去来庵」という。静岡銀行本店裏両替町通りにあり、静岡空襲で広大な屋敷・土蔵は全焼し、お堂の屋根にも2本の焼夷弾が突きささり発火したが、中まで入らなかったので焼失を免れ、焼け野原の中に忽然と残った。】
【写真下:お堂壁面に点々と見える黒い部分は、空襲の猛火にさらされ石の内部から溶け出したイオウ性物質。】
リンク: 伊伝財団・不去来庵
陸軍静岡練兵場訓練講堂
この講堂は歩兵静岡第34連隊の演習地(練兵場)の南端(現葵区城東町)へ1936年に建設されました。中では催涙ガスを発煙し、防毒マスクを着けての訓練が行われ、ガスの通気穴【写真左】もあります。現在は個人の住宅ですが、現状保存に努力が払われています。
静岡空襲で全焼・明泉寺
静岡伊勢丹の後側にある明泉寺は静岡空襲の猛火に包まれ、逃げ遅れた一家6人は墓地で一夜を過ごし、水谷光子さん(当時18歳、住職を継ぐ)と妹の2人だけが命をとりとめました。【写真左:当時の様子を語る水谷さん】
この蘇鉄【写真右】は天保年間に植えたもの。空襲で焼失しましたが、2年後に芽を出し、ここまで成長しました。
日露戦争死者の木像・常昌院・安養寺
常昌院(藤枝市岡部)は通称兵隊寺と言われ、日露戦争(1904年)の死者224体の木像を祀っています。木像は名古屋の彫刻家に依頼し、1906年に完成しました。安養寺(駿河区小坂)は、アジア太平洋戦争の末期に東京から86人の学童疎開を受け入れました。【写真左:常昌院。中:現在の安養寺本堂。右:本堂で日課の昼寝をする疎開児童】
占領軍諜報部隊の駐屯地・旧マッケンジー邸
アジア太平洋戦争で無条件降伏した日本は、1952年の講和条約発効まで、アメリカ軍を主力とする占領軍の統治下におかれました。その占領軍で治安状況のスパイ活動を行う諜報部隊(CIC)が、静岡市高松のマッケンジー邸にも駐屯していました。その後、マッケンジー邸は静岡市へ寄贈され、無料開放されています。
【写真は占領当時(CIC嘱託員の山崎鋭一氏撮影)と現在。建物正面・食堂・ホール。】
甲飛予科練之像【写真左】/「震洋」格納庫跡【写真右・後方の建物】
甲飛予科練之像 戦争末期の1944年9月、三保に戦闘機乗員養成のための清水海軍航空隊が開校され、15歳から20歳未満の若者が甲種飛行予科練習生として入校した。航空隊の跡地は現翔洋高校。像は三保飛行場西端に建つ。
「震洋」格納庫 海軍はベニヤ製モーターボートに爆薬を乗せて敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」を造り、三保半島の先端にも基地を置いた。横山健治さん(予科練の帽子をかぶって説明する人)は予科練として格納庫造りに関わった。
鉄舟寺の原爆慰霊碑【写真左】/清水庵原・一乗寺【写真右】
鉄舟寺 山岡鉄舟や清水次郎長が再興にかかわった鉄舟寺には、1982年に原爆慰霊碑が建立された。
一乗寺 今川家ゆかりの一乗寺(清水区庵原)は1560年に開創され、戦時中は学童疎開の受け入れ先となった。
八幡神社の大樹(写真左)/禅叢寺の扁額と毘蘭樹【写真中・右】
八幡神社 境内には樹齢800年の大楠、樹齢500年のイマヌキなど、5本の大樹があるが、少なくともそのうち4本は、焼夷弾で焼けた跡がある。
禅叢寺 本堂に白隠の書「爪牙窟(そうがくつ)」の扁額が掲げられている。空襲時には本堂が全焼、扁額は両端が焼け落下したが、中央上部に何かが覆いかぶさったためか、この部分だけ焼け焦げずに、白く三角の跡が残った。境内にある毘蘭樹は、戦前は樹高が高かったが、空襲で焼け、その後の台風で焼けた上部がもげ落ちてしまった。
静岡空襲で殉職した市立病院の若き看護婦たち
猛火の中、任務を果たし終えて
(昭和20年6月20日の空襲当時、病院は屋形町にあり、この夜、約100人の患者と103人の職員がいた。看護婦たちは全寮制で、空襲警報が出ると当直も寮にいる看護婦も全員で担当部署についた。)
……ただちに患者を誘導して安全地帯に移す。夢中で行動しているうちに、院内のあちらこちらに炎が上がる。玄関も燃え始めた。全員避難命令がでたが、もう各自で逃げ口を見つける他はない。
やっと空襲が止み、明け方4時ごろ病院へ急いだ。病院は全焼してあちこちに炎が上がっている。夕方になっても姿を見せない人たちがいる。
夜明けを待っても8人の姿が見えない。男子職員がまず病院周辺を探した。本通西教寺というお寺の前に、もんぺの一部、救急袋などが飛散していた。遺体はバラバラで、飛散した遺品を集めて、杉山みよ、望月さき、浦田美代子、市川京子、松野初江の5人と分かった。互いに手を取り合って逃げる途中、焼夷弾の直撃を受けたのだ。さらに病棟の間の防火用水の中に渡邊富貴子、塩澤秀子の二人、防火用水の外で横になっている加納よしののあまりに無惨な姿を見る。防火用水の中はカラカラで用務員が二人の遺体を引き上げた。(松林はな・当時看護婦長の手記より)
【上段左から】渡邊富貴子(主任)・加納よしの(18歳)・杉山みよ(17歳)・望月さき(17歳)
浦田美代子(17歳)・市川京子(16歳)・塩澤秀子(16歳)・松野初枝(15歳)
※ ここに掲げた8名の写真は、静岡平和資料センターで大切に保管しています。また、静岡市立病院では8名の偉業を偲び、毎年6月19日に職員による慰霊行事を実施しています。
殉職看護婦の功を称えて、病院内に設置された「みとりめの像」
静岡空襲の猛火からよみがえった日赤病院前・奇跡のクスノキ
日本赤十字病院は静岡空襲で火の海に囲まれ、病院正面の街路樹・クスノキも焼け焦げましたが、奇跡的によみがえり今も青葉が生い茂っています。静岡平和資料館をつくる会は、貴重な戦争遺跡であるクスノキを伐採することなく、末永く保存するよう静岡市へ要望してきました。保存の第一歩としてクスノキに説明板【写真右下】の取り付けが認められ制作を進めてきました。その説明板がこのたびできあがり、2011年7月17日に取り付けました。【画・久保田光亨 静岡市役所のドームも警察署の望楼も猛火に包まれた。この一角に日赤病院は今もある。】