遠藤直枝(当時19歳 井宮町)
5月24日、安西、柳町方面が空襲された。その時の焼夷弾(しょういだん)は子ども心に、花火のようにきれいだと思った。翌朝賎機山(しずはたやま)からながめると、一面に煙が立ちこめ、まだ炎がちろちろと残っていた。たくさんの人びとが死んだときいた。
右端には「その時の焼夷弾は花火のようにきれいだと思った。しかし、現在の花火は、もっともっと美しい」と書いてあります。
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遠藤直枝(当時19歳 井宮町)
焼夷弾(しょういだん)が降りそそぐ。たんすや人形、しいたままの赤いふとん、それらをひと目見てから賎機山(しずはたやま)の方へ逃げた。井宮(いのみや)ホーム付近の茶畑まで走ったとき、「ばんざーい」と母がさけんだ。B29が煙をはいて落ちていくのが見えた。
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遠藤龍彦(当時14歳 東草深)
6月19日深夜から20日の明け方にかけて、B29は、くり返しおそいかかった。街は火の海となり、炎に映(は)えて、B29の巨大な翼(つばさ)は悪魔(あくま)のようにかがやいた。
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遠藤龍彦(当時14歳 東草深)
本通りロータリーの中のマンホール。中で死んだ3人を引き上げる作業を見た。とび口をしたいの髪(かみ)にひっかけて上げようとするのだが、うまくいかない。「ああ、また切れちゃった」せっかくひっかけた髪が切れ、死体はまたマンホールの底へ落ちた
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遠藤龍彦(当時14歳 東草深)
一番町方面の広い通りに、焼けトタンをかぶせられた真っ黒焦(こ)げの死体。焼け落ちた防空壕(ぼうくうごう)の下によりそって死んでいるひとかたまりの人びと。ろっ骨(こつ)がむき出しになって焼け死んだ幼児。晴天なのに、くすぶりつづける熱気のためか、あたりは黄色くけぶっていた。
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飯田 勝(当時31歳 末広町)
市街の炎に追われて、人々は続々と安倍川に逃げた。その川原にも焼夷弾は雨のように投下された。はなればなれになった人たちは、おたがいに家族を呼びあった。
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井村道子(当時11歳 馬渕)
駅南の道の真ん中に、すわったまま黒焦げになっている2人の死体があった。人のうわさでは、おじいさんと、おばあさんだという。おじいさんのひざの上に、おばあさんがうずくまっていた。
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井村道子(当時11歳 馬渕)
宝台橋わきのマンホールの中から、死体を運び出すのを見た。火に追われて、マンホールに飛び込んで窒息死したらしい。その中の妊婦さんの姿が、今も強烈に目に残っている。
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岩崎喜美(当時34歳 幸町)
安倍川に、ユラユラと照明弾が降りてきて、あたりを昼のように明るく照らした。左すみの合掌(がっしょう)した男性は、手を合わせたままの姿で亡くなった。
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岩崎喜美(当時34歳 幸町)
家族はどうやら助かったものの、家は焼けてしまった。生後1か月の赤子を背負い、親子6人で、麻機の親せきをたよっていく。この時、荷車をひいた主人は、焼けあとに流行したチフスにかかり、薬もなく、十分な手当てもできないまま、死んでいった。
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小林はな(当時43歳 馬渕)
6月20日の朝。新川のあたり。猛火(もうか)はようやくおさまったが、街は死臭(ししゅう)と焼け焦げたにおいに包まれた。くすぶりつづけるけむりの中に、ゆらゆらと、えんじ色の太陽がのぼる。
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小林はな(当時43歳 馬渕)
新川付近の肥だめ(肥料にするため、人糞(じんぷん)をためておくコンクリートのためおけ)にも焼死体があった。体が燃えながら飛び込んだらしい。
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小林昭治(当時15歳 東草深)
B29はゆうゆうと上空を回りながら焼夷弾(しょういだん)をばらまいていく。銀色の機体が炎で赤く光る。ゴーッという風の音。谷津山(やつやま)の上空に高射砲(こうしゃほう)の弾幕(だんまく)らしいものが見えたが、敵機はいっこうに気にとめるようすもなかった。
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小林昭治(当時15歳 東草深)
20日早朝、避難先(ひなんさき)から、まだ燃えつづける市街に入る。静鉄(しずてつ)、春日町駅から台所町駅(現日吉町駅)まで歩く。煙に目を痛めつけられ、ますます息苦しくなる。燃える電柱からの火の粉が舞い落ちてくる。
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小林昭治(当時15歳 東草深)
空襲の翌日、静清国道(静岡清水間の国道1号線)は避難先から帰る市民でいっぱいだった。空は異様(いよう)に赤い。暑い日だった。
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小林昭治(当時15歳 東草深)
さいわいわが家は焼け残った。街のようすを見に中町あたりまで行く。上半身はほうたいをまきつけた人、焼けトタンをかぶせた死体。ロータリー付近まで行くと、いたるところに焼死体が転がり、もう足が進まなかった。建物は静岡銀行本店。
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久保田光亭(当時45歳 両替町)
市の中心であり、街のシンボルであった駿府城址(すんぷじょうし)も、市役所のドームも、警察の望楼(ぼうろう)も炎々(えんえん)と猛火(もうか)に包まれて燃える。静岡が燃える。
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桑原政江(当時12歳 伝馬町)
行く先はすべて火の海。旧歯科医師会館(市民文化会館西南)西側の外濠に入り、すわりこんだ。黒柳歯科の娘さんが、ふとんをかしてくれて、「がんばりましょうね」と、バケツで水をかけてくれた。その声にずいぶんはげまされた。
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桑原信夫(当時22歳 片羽町)
片羽町通りから、駅南に焼夷弾が落下し炎上(えんじょう)するのを見た。B29から投下された親焼夷弾が空中で炸裂(さくれつ)し、中から数十本の小型焼夷弾が飛び散って落下していく。まるで花火のようだった
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桑原信夫(当時22歳 片羽町)
突然異様(いよう)な音響(おんきょう)とともに、家の周囲に焼夷弾(しょういだん)が降ってきた。向かいの家の屋根を突き破って、二階の窓から火が吹き出す。道路、自転車、ガラス戸、あらゆるものにベトベトした油のかたまりがこびりついて燃えている。
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桑原信夫(当時22歳 片羽町)
対岸の慈悲尾(しいのお)の山にかけて、落ちる焼夷弾が仕かけ花火のように美しい。真夜中の土手の上に、みなぼう然と立ちつくす。ふりかえると、静岡市街は火の海と化していた。
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町塚みよ(当時20歳 安西2丁目)
空襲の夜、母と私は家を守るために、火タタキ、バケツを用意し、緊張して空を見上げた。幼い子どもは先に逃がした。そのとき、母は紫の風呂敷に位牌を包み、中学1年の弟の背にくくりつけた。
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町塚みよ(当時20歳 安西2丁目)
製茶工場の屋根をぶち抜いて焼夷弾が落ちた。男の人たちが、之を消そうと必死になっていた。火勢は少しもおとろえず、さらに広がっていった。バケツで消せるようなものではなかった。
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町塚みよ(当時20歳 安西2丁目)
茶業試験場(いまの厚生病院)近くから、葵町の方を見る。街は火の海で夕映えのように赤く、まだ、焼けていない家々が、黒々とシルエットになって浮き出ていた。
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町塚みよ(当時20歳 安西2丁目)
逃げる途中、母が「雨が降ってきたよ」と顔に手をやる。私にも雨のようなしぶきが降りかかってきた。だが、それは黒い油の雨であった。やがて、ごう音とともに無数の焼夷弾が落ちてきた。あわててコンクリートの橋の下に身をひそめる。
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町塚みよ(当時20歳 安西2丁目)
浅間山にも無数の焼夷弾が落ちて燃えていた。誰かが「B29が落ちるぞ!」と叫んだ。土手に駆けあがってみると、機体を真っ赤に染めながら落ちていく。誰もかれも、近くにいた兵隊も思わずバンザイを叫んだ。
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町塚みよ(当時20歳 安西2丁目)
さいわいに焼け残った親せきの家の前に、人がたおれている。弟ではないかと思って走り寄ってみた。頭は穴があき、顔は誰かわからぬほど肉がほじれ、黒こげになっていた。背負っている雑のうから、焼けた米がこぼれ落ちていた。
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小長谷實(当時20歳 安西2丁目)
焼け野原の呉服町通り、現パルコ前にあった防火用水槽の中に、母と子の焼死体があった。水は蒸発して一滴もなく、母は子をしっかり抱いていた。その母親の腹部は鯖(さば)色をしていて、生きたまま焼かれたことをまざまざと物語っていた。
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小長谷實(当時20歳 安西2丁目)
全身やけどで水ぶくれの女性を、八幡から日赤病院へ運ぶ。大八車に乗せるとき、水泡がブチュ、ブチュとつぶれた。彼女は「ヒィー」と悲鳴をあげて泣いた。抱いた子は死んでいるのだが、離そうとしなかった。彼女も間もなく死んだ。
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村松治五郎(当時34歳 馬渕)
もとロータリー付近の防火用水には、立ったままの黒焦げの死体があった。ほんのわずかな水でも、水でさえあれば、という思いだったのだろうか。自分の命をうばった敵機をのろっているのだろうか。
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村松治五郎(当時34歳 馬渕)
空襲3日後には、市内各地から安倍川の川原に死体が運ばれ、焼けトタンの上に100体ぐらい並べられているのを見た。真っ黒で男女の区別もつかず、ただ子どもだけは小さいのでそれとわかった。
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村瀬千枝子(当時19歳 富士見町)
炎に追われて、暗い方へ暗い方へと向かって逃げる人びとがつづく。今度こそわが身に焼夷弾(しょういだん)の直撃(ちょくげき)が突きささるのではないかと身ぶるいしながら、ただ逃げる。
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村瀬千枝子(当時19歳 富士見町)
異様(いよう)な音にふり向くと、伝馬町新田あたりにB29が墜落していくのが見えた。人びとは喜び、子どもたちはバンザイをさけんだ。町はまだ燃えさかっていた。
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村瀬千枝子(当時19歳 富士見町)
B29はきらきらと、夜目にも美しく銀色に光って墜ちていく。すごい衝撃であった。それから後もずっと、B29がまっさかさまに落下してくる夢を見た。
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中條冨美枝(当時33歳 田町6丁目)
4人の子供をつれて安倍川に逃げた。遠くの山々にも提燈(ちょうちん)のように火が見える。川面には燈籠(とうろう)流しのように火が流れ、やがて川そのものが大きな火の流れになった。
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中條冨美枝(当時33歳 田町6丁目)
夜食の卯の花パンを持って宿直当番に出かけた夫は、一番町国民学校横で焼死体となっていた。安倍川で火葬にする。夫の体はなかなか焼けきれず、骨になった部分から木箱に納めた。胃が破れ、卯の花がこぼれ出るのを見て泣いた。まだ、熱い箱を抱いて帰ったが、鉄橋の下でも死体を焼く火が赤く点々と見えた。
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西村とし(当時18歳 本通8丁目)
ろう人形のようだった。焼けトタンを誰かがかぶせたらしいが、硬直していて用をなさない。上を向いているのは女の人に多いとか。この人の遺体は本通りの車道に長い間おかれていた。
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西村とし(当時18歳 本通8丁目)
顔と手に一面やけどをしていた。ちょうど魚の皮が焦げたように、5ミリ~1センチぐらいに、丸く、黒く焦げてふくれ、顔中に広がっていた。救護所でも治療が受けられないらしく、空襲の翌日には、こういう人たちが何人もつながって、さまよっていた。
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小川孝太郎(当時15歳 駒形通)
荷物をかかえ、病人はリヤカーにのせ、幼い子どもは、うば車や自転車の荷台にのせて逃げる。焼夷弾(しょういだん)の直撃(ちょくげき)をうけて子どもが死ぬ。死んだ赤んぼうを背負って逃げる母親。焼夷弾の油が体につき、そこから燃えていく。
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小川孝太郎(当時15歳 駒形通)
ひとり自転車で、丸子(まりこ)のあたりまで逃げのびた。ふと、ふり返った山のむこうは、燃えさかる街の炎とけむりで真っ赤だった。その中に、ヌウッとおどり出るように現われたB29の巨体。悪魔の巨鳥であった。
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小川孝太郎(当時15歳 駒形通)
火に囲まれた人びとは、わずかな水を求めて、どぶ川から暗渠(あんきょ)へもぐった。そして、すしづめになったまま窒息死(ちっそくし)していった。炭化(たんか)し、硬直(こうちょく)した死体の群れ。はじめは、黒焦げのマネキン人形かと思った。今の常磐町3丁目で見た光景。
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小川孝太郎(当時15歳 駒形通)
しっかりした大きな防空壕(ぼうくうごう)に、人びとは逃げ込んだ。安心していたのかもしれない。それとも、まわりが火の海で逃げ出せなかったのか。中には火は入らなかったが、人びとは家族そろって酸欠死(さんけつし)した。すすけたところも全く無い、きれいな死体だった。
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小川孝太郎(当時15歳 駒形通)
焦(こ)げた死体の黒。死体を焼くけむりの白。火葬(かそう)の作業をする刑務所(けいむしょ)受刑者(じゅけいしゃ)たちの制服の青。この三つの色は、今もなお私の目に深く焼きついてはなれない。
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小川孝太郎(当時15歳 駒形通)
焼け出されても疎開(そかい)できない人びとは、焼けあとに小屋を作って住んだ。便所に囲いを作ることもできず、用便は夜すませた。しかし焼けあとの生活に消化器系の伝染病が猛威(もうい)をふるい、人びとは、はげしい下痢(げり)に苦しんだ。白昼(はくちゅう)若い娘ですら、囲いのない便所に急いだ。伝染病で多くの死者も出た。駒形で。
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小川孝太郎(当時15歳 駒形通)
今のオリオン座(七間町)の前の、ふたのない防空壕(ぼうくうごう)に、黒焦げの焼死体があった。死んだ人間になれっこになった人びとは、目もくれずに通り過ぎていく。1か月ぐらい放置されていた。
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大長努(当時15歳 南沼上)
宝台橋(ほうだいばし)(いまの昭和町から馬渕(まぶち)へかけて、東海道線にまたがる陸橋)をおりたところに、全身焼けただれた馬が死にきれずに苦しんでいた。目も見えず、あちこちにぶつかってよろめく。当時、馬は荷物を運ぶのにつかわれ、人びとには親しい存在だっただけにいたいたしかった。
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斉藤志づ(当時34歳 弥勒3丁目)
焼夷弾(しょういだん)に追われながら、幼い子を1人背負い、2人を両手にひいて、安倍川橋を渡って手越(てごし)の土手を逃げ走った。弥勒(みろく)のわが家が燃えているのが見えた。その後1か月あまりを野宿で過ごした。
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佐藤はな(当時36歳 水落町)
父、姉、2人の姪が入っていた防空壕(ぼうくうごう)が直撃された。姉だけは助かったが、姪の首には焼夷弾(しょういだん)が突きささっていた。即死だった。父ともう一人の姪も息が絶えた。無残な姿であった。
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佐藤はな(当時36歳 水落町)
直撃で死んだ父と姪2人の遺体を手づくりの箱に納めてリヤカーに乗せ、焼けがらをかき分けながら、蓮永寺(れんえいじ)の墓地に運ぶ。せめてもの供養(くよう)に、山かげの花をつんでそなえた。山は静かだった。
※体験画につきまして無断転載を厳禁します。
佐藤はな(当時36歳 水落町)
水道だけが助かって、ひねると水が出た。昨日買い集めたじゃがいもが転がっている。かまどはこわれてしまったが、昨夜しかけたご飯はたけていた。みんなでおむすびを作って食べる。すべて焼けてなくなって、谷津山(やつやま)だけが見えた。
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芹沢きよ(当時22歳 北番町)
昭和20年5月24日、安西5丁目付近の空襲。油脂焼夷弾(ゆししょういだん)の炎を全身に浴びた女の人。焼けただれた赤黒い皮ふは、ずるっとむけてしまいそう。苦しさにのたうち、瞳も異様だった。翌朝不帰(ふき)の客となった。
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芹沢きよ(当時22歳 北番町)
逃げ込んだ防空壕の中にも火がついた。7か月の乳飲み子を抱いた母を先頭に、私は幼い弟を背負って、燃えさかる炎の中におどりでた。他の壕まで走る間に弟の防空頭巾は燃えてしまった。同じ時刻、別の所で他の弟と妹は焼け死んでいた。
※体験画につきまして無断転載を厳禁します。
柴田俊(当時13歳 川根に疎開中)
昭和20年の4月、わたしは静岡市から川根町へ疎開(そかい)したので大空襲にはあわなかった。しかし、父親が家のせまい庭に掘った防空壕(ぼうくうごう)に入って、アメリカ機が空高く飛来(ひらい)してくるのを何度か見た。
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小長谷澄子(当時21歳 二番町)
勤め先の宿直だったいとこ1人を残して、家族5人が焼死した。いとこの嫁と子どもたちは、防空頭巾の名札やズックの名前まで読みとれたが、伯父のからだは黒く焦げて、腹の上には腸が小さくとぐろをまいていた。
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小長谷澄子(当時21歳 二番町)
安西5丁目の仕出し屋「魚長」のあたりにB29の残骸があった。大破した機体の下から搭乗員の死体がのぞいていた。空襲に打ちのめされて思考が止まってしまった頭には、憎しみも哀れみもわいてこなかった。
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鈴木富夫(当時17歳 八番町)
火屋(ひや)ん土手(薩摩通り)づたいに安倍川へ逃げた。身を守るために皆ふとんをかぶって必死に逃げてくる。赤い色のふとんが多く、恐怖(きょうふ)の中で一瞬(いっしゅん)、ふしぎに明るく感じた。
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鈴木富夫(当時17歳 八番町)
一番町の家から親子3人で逃げた。とちゅうロータリー(本通りと昭和通りの交差点)付近で猛(もう)れつな竜巻におそわれ、焼けトタンが乱舞(らんぶ)、思わず街路樹(がいろじゅ)にしがみついた。人びとは持って出た荷物やふとんをこの竜巻で失った。(妻春子-当時国民学校5年生-の体験)
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滝正臣(当時8歳 秋山町)
安倍川の堤防(ていぼう)から見ていると、銀色にかがやくB29の巨体から、焼夷弾がたばになって、次から次へ投下されていく。当時8歳の私には強烈(きょうれつ)な印象だった。ガソリンの燃えるような強いにおいがした。
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滝正臣(当時8歳 秋山町)
籠上(かごうえ)中学校のまわりの田んぼには、無数の焼夷弾(しょういだん)が突きささっていた。田んぼはすっかりかわいて、その中に物が飛んできて散乱(さんらん)していたり、やぎか子牛のような死がいが転がったりしていた。
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田中貞子(当時11歳 水落町1丁目)/p>
横内国民学校(小学校)6年生のとき、朝礼の最中に小型の艦載機(かんさいき)が群れをなして飛んできた。きめられた防空壕(ぼうくうごう)に走る間はなく、ふじ棚の下の1年生の壕に飛びこむ。飛行機がすぎ去るころ警戒警報(けいかいけいほう)と空襲警報が続いて鳴った。20年4月ごろのこと。
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田中貞子(当時11歳 水落町1丁目)
番町あたりの路上には、焼け焦げた死体がごろごろしていた。どの死体も、衣服は焼け失せ、ほとんど裸であった。男女の区別も、体型からやっと判別できる程度。
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垂脇てる(当時24歳 新富町)
またたく間に火の海となった街をあとに、火屋ん土手を逃げていく。物もとぼしく下駄(げた)をはいている人が多かった。
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垂脇てる(当時24歳 新富町)
安倍川まで行けば燃えるものがないから安心と、続々と避難(ひなん)してきた。その人たちの群れめがけて、雨のように焼夷弾(しょういだん)が降りそそぐ。直撃(ちょくげき)を受けて泣きさけぶ声。川がもえながら流れていく。焼夷弾をさけるため安倍川橋の下にかたまって、生きた心地もなかった。
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垂脇てる(当時24歳 新富町)
ひと晩じゅう真っ赤に燃えて一面けむりなので、いつ夜が明けたのか、いつ太陽がのぼったのか、まったくわからなかった。ただ、けむりの中からボーッと赤いものが見えて…。それが太陽だった。
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垂脇てる(当時24歳 新富町)
床の上に、はだかで寝かされている人、体じゅうから血を流し、かみの毛も焼けて男か女かわからない人。泣きさけび、うめいてもなすすべもなかった。鼻につくにおい。地獄(じごく)であった。薬もとぼしく、重傷者(じゅうしょうしゃ)はみな、のたうちまわって死んでいった。
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垂脇てる(当時24歳 新富町)
何もかも焼けて、瓦礫(がれき)の山になってしまった。道にも防火用水の中にも人が死んでいる。黒焦(くろこ)げになって、男女の見分けもつかない。焼けたにおいが鼻をつく。
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垂脇てる(当時24歳 新富町)
やけどした母を担架(たんか)に乗せて、妹と2人で新富町(しんとみちょう)6丁目から田町(たまち)3丁目の西病院まで毎日治療(ちりょう)に通った。静かに歩かないと、傷にひびく。少しでも苦しまないようにと思うと、とても力がいった。
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寺田豊太郎(当時30歳 横田町)
16歳の妹が防空壕の中で死んでいるという知らせをうけた。20日の朝、無我夢中で車を引いて遺体を引きとりに行った。焼けただれた電車がある。防空壕の入口に、焼夷弾の直撃を受けた女の人の死体がある。生きている人も死体も、大八車で運ばれていた。鷹匠町から音羽町方面を見た光景。正面は清水山。
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宇野ヒサ江(当時19歳 西千代田町)
一夜にして燃えつきた静岡市街。浅間神社山頂から見た安西国民学校付近。6月20日午前6時ころだった。
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宇野ヒサ江(当時19歳 西千代田町)
防空壕(ぼうくうごう)のふたをあけてみると、中にいた人たちは全員折り重なって死んでいた。からだには何の傷あともなく、窒息死だった。
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宇野ヒサ江(当時19歳 西千代田町)
火に追われて逃げまわり、熱風にたえられなくて防火用水に飛び込んだ人たち。水につかっている部分だけはそのままだが、水面から出ている部分は真っ黒に焦げていた。男女の区別もつかなかった。
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宇野ヒサ江(当時19歳 西千代田町)
焼夷弾(しょういだん)で火の川となった安倍川は、一夜あけると一大火葬場(かそうば)となった。焼けぼっくいが集められて井げたに組まれ、遺体(いたい)が焼かれた。そのけむりはいく条となく立ちのぼり、川原をたなびきつづけた。
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渡辺慶子(当時36歳 産女)
落下物から身を守るため、ふとんをかぶって逃げたが、巻き起こる突風に吹き飛ばされてしまった。しかし、他のふとんが舞い落ちてきたので、それをかぶって助かった。
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八木昌一(当時32歳 八幡3丁目)
人宿町あたりの、安西へ通ずる十二間道路。行方の分からない友人の家族を探して歩いた。道路やその両脇の防空壕の中には、男女の区別もわからない死体が、いくつも転がっていた。求める遺体は、とうとう見つけることはできなかった。
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山田泰治(当時25歳 東森下町)
昭和20年4月24日午前、八幡(やはた)、石田方面の空襲で爆弾投下。吹き上がる黒煙(こくえん)。保育園の園児や、若い保母さんが死んだ。
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山田泰治(当時25歳 東森下町)
6月20日午前3時ごろ、やっと生きのびて東森下町の焼け残ったわが家にもどった。空を焦がす火の手がすさまじかった。
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山田泰治(当時25歳 東森下町)
空襲後2日目の本通りロータリー付近。たくさんの死体が散乱(さんらん)していた。米ぶくろを必死に守ったままの死体、抱きあう親子の死体など。
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山本安子(当時9歳 神明町)
死体が運びかまれてくる井宮国民学校の校庭に、死んだ幼児を背負っている婦人がいた。誰かが、おろすように言っても、気が動転しているのか、聞き入れず、校舎の階段を上がったり降りたりしていた。幼児は母の背中で焼夷弾の直撃を受けたのだった。
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山本安子(当時9歳 神明町)
井宮国民学校の渡り廊下に、全身焼けただれた男の人が、のたうちまわっていた。「助けてくれ」と、うめくように叫んでいるが、誰も、どうすることもできない。やがて声も弱くなり、息を引きとった。
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